第三十話 旅は続く、まだ言葉にならないまま
王都外郭を離れる朝。
石壁が遠ざかるほど空気が軽くなる。
レインは露骨に機嫌が良くなり、歩く速度が上がった。アネスも肩の力が抜けた顔をしていた。
「あれは戦いじゃなくて胃が痛くなるやつ」
レインが笑うと、アネスが頷く。
「だから終わったのは大きい。当分は来ないと思う。書面が効いてる」
アルドは黙って頷いた。背負う荷は同じだが、足取りが軽い。
書面一枚で全てが解決するわけではない。でも、足元の石が一つ減った。
◇
ベルナの混乱はまだ続く。
だから次は西の交易路を回り、補給が詰まっている村を見ながら依頼を受ける、とアルドは言う。
丘で休憩した時、アルドが地図を広げた。草の上に座り、四人で地図を囲む。風が紙の端を揺らし、レインが石で押さえた。
「旧砦跡の村に寄れる。南の森で魔物の動きが変だって報告もある」
セラは前世の記憶が囁くのを感じた。
“変だ”は大きな出来事の前触れになり得る。魔物の移動パターンが変わる時、その原因は二つ。自然環境の変化か、もっと大きな魔物に追われたか。後者なら、注意が要る。
けれど、今はそれだけで決めない。
「報告の数は?」
セラが聞く。
「一件なら偶然もある。情報を増やしてから動いた方がいい」
レインが同意し、アネスが負傷者の有無を先に見る提案を出す。
決め方は静かで、押し付けがない。一人が言い、一人が賛同し、一人が補足し、一人がまとめる。誰が主導というわけでもなく、言葉が自然に回る。
そのやり取りを聞きながら、セラは少しだけ口元を緩めた。
こういう”普通”が、この旅にはある。
◇
午後の街道、風が強い。草原が波のようにうねり、雲が速く流れている。
セラはふとアルドの横顔を見る。
城都での顔、会議館での声、街道で商人にかける気安さ。
全部が同じ人間の中に収まっている。どの顔も嘘ではなく、どの声も演技ではない。場所に合わせて表面は変わるが、芯は動かない。
たぶん自分も同じだ。
追放の記憶、前世の傷、ソロの二年間、今の旅。
切り離せないものが、少しずつ繋がっていく。
前世のセラは壊れた。今世のセラは壊れないように生きてきた。
でも”壊れないように”は、“繋がらないように”でもあった。
今は違う。壊れるかもしれない距離にいる。
それでも、離れたいとは思わない。
◇
野営地で火を起こした夕方。
空が赤から紫へ変わり、最初の星が一つ現れた。薪が爆ぜる音と、鍋の底が焦げる匂い。レインが鍋番で、アネスが味見をして「薄い」と言い、アルドが塩を足す。
胸の奥で言葉にならない感覚が動いた。
離れたくない。
理由はまだ言えない。
助けられたからだけでは足りない。
役に立てるからでもない。
呼吸の仕方が変わる、この並びのせいだ。
四人でいる時の空気の重さが、ちょうどいい。
軽すぎず、重すぎず、自分の形で立っていられる。
火越しにアルドが聞く。
「寒くないか。薪足す?」
「……大丈夫です」
いつもの短い返事。
でも今日は、その後に言葉を足した。
「このくらい、ちょうどいいです」
レインが茶化す。「おっ、セラが二文続けて喋った。記念日だ」
アネスが呆れる。「うるさい。せっかくの空気を壊さない」
アルドは苦笑して火を見た。
セラは自分でも驚く。
言葉を足すのが、怖くなかった。
◇
旅は続く。
政治の影も、街道の不穏も消えない。
南の森の報告が何を意味するのかも、まだ分からない。
それでも今のセラは、一人ではない。
言葉にならない確かさを胸の底に置いたまま、火の音を聞き続けた。
隣には三人の気配がある。それだけで、夜は怖くない。




