第十六話 四人の出発、最初の依頼
Aランクの刻印が入ったギルドカードを胸にしまっても、実感はまだ薄かった。
指先でカードの縁をなぞると、刻印の凹凸が爪に引っかかる。金属の冷たさは確かなのに、重みがあるのはそこではない。
昨日交わした約束の方だ。
灰猫亭の食堂は朝から薄暗く、窓から差す光が埃を浮かべていた。テーブルの木目に染み込んだ油の匂いと、厨房から漂うスープの湯気。それがセラにとっての”日常の始まり”だった。
アルドが依頼票を机に広げる。紙が三枚。どれも短い文面だった。
街道沿いの護送補助。小型魔物の出没確認。村への物資運搬の随伴。
“慣らし”と書いてあるみたいな内容だった。
「最初は足並みを合わせたい。強い弱いじゃなく、癖を知るために」
そう言って笑う彼は、こちらに”従え”と言わない。
前世の勇者パーティでは、指示は常に一方通行だった。「ここに立て」「詠唱しろ」「下がるな」。それに比べると、アルドの言葉には隙間がある。返事を待つ間の沈黙が、選ぶ余地として残されている。
指示ではなく相談で始まるのが、セラにはまだ不思議だった。
出発前、レインは弓弦を指で弾きながらセラを横目で見る。
「荷物、軽いね。ソロの名残?」
「必要なものだけ」
短く答えると、彼は肩をすくめた。
「いいね。俺はつい色々持つ。弦の予備に油に、おやつに……」
「おやつは必要なものじゃない」アネスが後ろから口を挟む。
「必要だよ。士気に関わる」
レインの言い分にアネスが鼻で笑う。その空気に、セラは口元を引き締めた。笑いそうになった自分に驚いたからだ。
アネスは薬袋を四つ並べ、過不足を確認していく。中身を出しては並べ、指で数え、薬草の匂いを嗅いで鮮度を見る。手つきに迷いがない。
セラの袋にも自然に指を伸ばし、「包帯、少ない。足す?」と訊ねた。
断ろうとして、セラは飲み込む。
「……足します」
それだけで、アネスは嬉しそうにもしない。
ただ「うん」と頷くだけだ。
善意の押し売りでもなく、恩の先払いでもない。必要なものを確認して、渡す。それだけの行為なのに、セラの胸の奥がかすかに痛んだ。
こういう普通が、長い間なかったのだ。
◇
西門を出ると、空は高く、風は乾いている。
石畳が途切れ、踏み固められた土の道に変わると、靴底の感触が柔らかくなった。草の匂いと土の匂い。街の中では感じられない空気の広さがある。
先頭のアルドは道を読む。轍の深さ、枝の折れ方、地面の湿り具合。目線が常に三十歩先を見ている。
レインは射線と影を拾い、木立の向こうに視線を走らせる。弓を背負う姿勢のまま、指先が弦の位置を確かめるように動く。
アネスは隊列の崩れを先に直す。御者と荷の間に空きすぎた距離を、自分の歩幅で埋めるように移動する。
セラは魔力の揺れを薄く広げ、足場の変化にだけ意識を置いた。
四人がそれぞれ別の”層”を見ている。重なりがあって、隙間がない。この形を作るのに、彼らがどれだけの時間を重ねてきたのかが分かる。
商隊は六台。荷は布と塩と、冬前の乾物。車輪が小石を踏むたびに、荷が揺れて木箱同士がぶつかる音がする。
御者の一人が不安そうに言う。
「最近、検問が増えた。王都の方で揉めてるらしい」
アルドは歩きながら返す。
「遠回りできる道もある。状況次第で切り替える」
声は穏やかだが、目は道の先を見たまま動かない。安心させるためだけの言葉ではなく、本当に代替案を持っている声だった。
◇
分岐の手前で、牙犬が三体。
茂みの中から低い唸り声が聞こえた瞬間、セラの魔力感知が反応する。三つの熱源、速い。
商人の悲鳴が出る前に、アルドが進路を切り、商隊の前に立った。レインの矢が一匹の肩を抜く。風を切る音すら小さい。
セラは火球を小さく割って放った。一つではなく三つに分けた低出力。
燃え移らない角度、仲間の間合い、荷の位置――考えることが増えたのに、焦りは少なかった。ソロの時は全部を自分で見なければならなかった。今は”任せていい部分”がある。その分だけ、視野が広がる。
「左、抜ける」
アルドの声に、セラは土を盛り、牙犬の足を取らせた。滑った牙犬がバランスを崩し、アルドの剣が首筋に入る。
短い連携で、戦いは終わる。
その直後、セラが追撃の火球を準備した位置と、レインの矢線が一瞬重なりかけた。
危ない、とセラの背筋が冷える。しかしレインは怒らなかった。
「次は俺が先に合図する。声か、手か」
「私も声を出します」
セラが返すと、レインは頷いただけだった。修正が早い。責める時間を使わない。それだけで安全が増える。
戦後、商人の若い助手が震える手で礼を言う。セラは返事に迷い、口を開く代わりに目線で頷いた。言葉にすると重くなる気がした。
◇
昼、荷車のそばで休憩すると、アネスがセラの袖口を指先で示した。
「焦げてる。後で冷やすね」
火球を分割した時の余波だろう。痛みはない。でも布は焦げている。
反射で”大丈夫”と言いかけて、やめた。
大丈夫でも、言われた注意を受け取る方が、結果として安全だと理解できる。前世のセラなら断っていた。手当ての手間を相手にかけるのが嫌だったのではない。“借り”を作ることが怖かったのだ。
今は、受け取ることに少しだけ慣れ始めている。少しだけ。
野営地は低い林の中だった。
木漏れ日が地面に斑を作り、風が通ると葉が鳴る。湿った土の匂いと、枯れ葉の甘い腐敗の匂い。
薪を拾う手つきで、レインが軽く言う。
「火、強くすると煙で居場所がわかる。弱い方がいい」
セラは小さく頷き、風魔法で煙を散らした。火の上に空気の層を作り、煙を細かくして上空へ拡散させる。するとアルドが笑う。
「便利だな、それ。今度、俺の鍋番の時にも頼む」
鍋番。その言葉が妙に可笑しかった。Sランク冒険者に鍋番があるのか。
◇
野営の火を囲んだ夜、アルドがスープを渡してきた。木の器に注がれた薄い塩味のスープ。乾燥肉と根菜が沈んでいる。
「今日、やりやすかった。セラ、周りがよく見えてる」
褒められると、背中が落ち着かない。“役に立つ”と評価されるのは、前世では”使える駒”の確認だった。
けれど、アルドの声は評価というより確認に近い。“できたね”ではなく”見えてたね”。能力ではなく、視線の話をしている。
帰路の街道で、検問の話題が出た。王都が厳しくなったらしい。
商隊の御者たちが不安そうに声を交わし、荷の中身を確かめ直す姿があった。
“誰かが揉めている”――遠いはずの政治が、旅人の足に影を落とす。
セラは空を見上げた。夕焼けが薄く広がり、雲の端が赤く燃えている。
二度目の旅は、思っていたより静かに、そして確実に、別の方向へ転がり始めている。




