ep.89 ルア、暮らしを記す
夕暮れの火の輪は、淡い橙色に染まっていた。
焚き火のそばで、ルアがひとり手帳を開いている。
ページには、火の輪の地形、気候、住人の名前。
整った文字が、几帳面に並んでいた。
「……今日の気温、海風の強さ……
焚き火の燃焼時間……」
淡々と書き込んでいた手が、ふと止まった。
風鈴が、ちりん、と鳴った。
ルアは顔を上げた。
「……この音は、記録できない」
彼は小さくつぶやいた。
「できるよ~?」
ミミルが、いつの間にか隣に座っていた。
「“ちりん”って書けばいいの~」
「……それでは、伝わらない」
ルアは、風鈴を見つめたまま言った。
「この音は……
風の温度、火の揺れ、島の空気……
それらが混ざって生まれている。
文字では……足りない」
ミミルはにこにこしながら、ルアの手帳を覗き込んだ。
「じゃあね~、“感じたこと”を書けばいいよ~」
「感じたこと……?」
ルアは、まるで未知の言語を聞いたような顔をした。
「うんうん~。火の輪の記録はね、
“暮らしの気持ち”も書くの~」
ルアはしばらく黙っていた。
やがて、手帳の端に小さく書き加えた。
――風鈴の音、心を静める。
書いた瞬間、彼は少しだけ目を見開いた。
「……記録ではない。
だが……確かに“残る”」
「そうそう~! それが火の輪の記録だよ~」
ミミルが嬉しそうにしっぽを揺らす。
ルアは、手帳を胸に抱えた。
「……私は、記録官だ。
だが……ここでは、記録官である前に……
ひとりの暮らし手であるべきなのかもしれない」
風が吹いた。
風鈴が、ちりん、と鳴る。
ルアはその音に、そっと微笑んだ。
「……では、今日の記録にもう一つ。
“火の輪の夕暮れは、静かで……あたたかい”」
火の輪の夜に、
ひとつの“暮らしの記録”が生まれた。
今回は、ルアが“記録”の形を変えていく回でした。
彼にとって記録とは、
正確で、客観的で、揺らぎのないもの。
けれど火の輪では、
風鈴の音や火の揺れ、
暮らしの温度や心の動きが、
“記録に値するもの”として存在しています。
ルアが書いた
「心を静める」
「静かで、あたたかい」
という言葉は、
彼が初めて“暮らしの記録”に触れた証です。
次回は、ソレイユが“名前”を探し始める回。
火の輪の風が、彼女の心に新しい音を運んできます。
それじゃ、また火のそばで。




