ep.87 ブラン、剣を研がない夜
夜の火は、昼よりも静かだった。
焚き火の赤い光が、ブランの横顔を照らしている。
彼は、腰の剣を膝に置いたまま、じっと火を見つめていた。
「……研がないの?」
ミミルが、湯気の立つ木椀を持って近づいてきた。
「いつも夜は、剣を研いでたでしょ~?」
「……研ぐ必要がない」
ブランは短く答えた。
「ここでは、剣を抜く場面がない。
……だから、研ぐ理由もない」
「そっか~。でも、なんか変な感じでしょ?」
ミミルは、火のそばにちょこんと座った。
ブランはしばらく黙っていたが、
やがて、ぽつりとつぶやいた。
「……落ち着かない。
剣を研がない夜が、こんなにも長いとは思わなかった」
「長いけど、悪くないよ~」
ミミルは、火に薪をくべた。
ぱち、と火が跳ねる。
「火の音ってね、“大丈夫だよ”って言ってるの~」
「……火が、か」
ブランは、剣の柄にそっと触れた。
けれど、抜くことはしなかった。
「俺は、剣を研ぐことで心を整えていた。
だが……ここでは、火がそれをしてくれるらしい」
「うんうん~。火の輪の夜はね、
“戦わなくていい夜”なんだよ~」
ブランは、ゆっくりと息を吐いた。
「……戦わなくていい夜、か。
そんな夜が……まだ、この世界に残っていたとはな」
風が吹いた。
風鈴が、ちりん、と鳴る。
ブランはその音に、わずかに目を細めた。
「……悪くない」
ミミルが笑った。
「でしょ~?」
その夜、ブランは剣を研がなかった。
ただ火のそばに座り、
静けさの中で、自分の呼吸を確かめていた。
火の輪の夜に、
ひとつの“休む力”が芽生え始めていた。
今回は、ブランが“剣を研がない夜”を迎える回でした。
彼にとって剣は、
戦いの道具であると同時に、
心を整えるための“儀式”でもありました。
その儀式を手放すことは、
彼にとって大きな変化です。
けれど火の輪では、
火の音が心を整え、
風鈴の音が静けさを運び、
“戦わなくていい夜”が訪れます。
ブランはまだ戸惑っています。
でも、その戸惑いの奥に、
確かに“安らぎ”が芽生え始めています。
次回は、エトワールが“祈りの布”を織る回。
火の輪の暮らしが、彼女の祈りに新しい形を与えていきます。
それじゃ、また火のそばで。




