ep.189 名の根
咲姫は、ひとりで町の外れへ向かっていた。
そこは、地図にも載っていない場所。
かつて“風の咲姫”がよく通っていたという、
小さな丘の上の祠だった。
誰に言われたわけでもない。
ただ、足が自然とそこへ向かっていた。
祠は、苔むしていた。
屋根は崩れ、扉は外れかけていた。
けれど、そこには確かに、
“誰かが祈っていた”気配が残っていた。
咲姫は、そっと祠の前にしゃがみこんだ。
土に触れる。
冷たくて、やわらかくて、
でも、どこかあたたかい。
「……私の名前は、咲姫、なのです」
声に出してみる。
その響きが、風に乗って祠の奥へと消えていく。
「でも、それだけじゃ……足りない気がするのです。
私が“誰か”の咲姫なのか、
それとも、“私だけ”の咲姫なのか……」
そのとき、祠の奥から、
ひとつの木箱が転がり出てきた。
咲姫は、そっとそれを開けた。
中には、風にさらされた紙片が数枚。
そのひとつに、こう書かれていた。
——咲姫へ。
あなたがこの名を継ぐとき、
どうか、自分の風を忘れないで。
咲姫は、目を見開いた。
そして、そっとつぶやいた。
「……継いでいたのです、やっぱり」
けれど、その言葉に、
不思議と恐れはなかった。
むしろ、胸の奥に、
小さな根が張り始めるような感覚があった。
『土の章・九
名の根。
名は、風のように渡され、
土のように根づいていく。
継がれた名は、
やがて“自分の名”として芽吹く。』
“土の章”九つ目は、名の根。
咲姫は、自分の名が“継がれたもの”であることを、
静かに受け入れ始めました。
それは、誰かの名をなぞることではなく、
その名に、自分の根を張っていくこと。
風の咲姫の記憶と、今の咲姫の存在が、
ようやく重なり始めます。
また、次の土で。




