ep.185 名のひびき
その夜、咲姫はひとりで井戸のそばにいた。
火把の灯りが、石の縁を照らしている。
その光に照らされながら、
彼女は、昼間の記録を思い出していた。
——咲姫、風の祭りにて。
鐘を鳴らしながら、広場を駆け回る。
「風は自由なのです!」と叫びながら。
咲姫は、そっとつぶやいた。
「風は……自由、なのです」
声に出してみると、
それは、どこか自分の声に似ていた。
けれど、少しだけ違っていた。
もっと軽くて、もっと跳ねていて、
もっと、まっすぐだった。
「私……あんなふうに、笑っていたのかな……?」
咲姫は、火把の灯りに手をかざした。
指の影が、石の上に揺れる。
そのとき、背後から声がした。
「咲姫さん、まだ起きてたんですね」
リオだった。
記録帳を抱え、そっと近づいてくる。
「さっきの記録……気になってて」
「……私も、なのです」
ふたりは、井戸のそばに並んで座った。
火の灯りが、ふたりの顔をやわらかく照らす。
「名前って、不思議ですね」
「うん。……でも、咲姫さんは咲姫さんですよ」
リオの言葉に、咲姫は目を見開いた。
そして、ふっと笑った。
「ありがとう、なのです。
でも、私……これから、もっと知りたいのです。
この町のことも、咲姫という名前のことも。
そして、私自身のことも」
火が、ゆらりと揺れた。
まるで、それにうなずくように。
『土の章・五
名のひびき。
名前は、記号ではない。
それは、誰かの記憶であり、
誰かの願いであり、
ときに、重なり合う音でもある。』
“土の章”五つ目は、名のひびき。
咲姫という名に宿る違和感。
それは、彼女自身の中にも、
小さな揺らぎを生み出しました。
けれど、その揺らぎは、
彼女を不安にさせるものではありません。
むしろ、**“もっと知りたい”という芽**を育てる、
土の章らしい静かな目覚めなのです。
また、次の土で。




