ep.165 灯せなかった
火口を前に、ラディは立ち尽くしていた。
薪は組まれている。
火打石も、油も、すべて揃っている。
けれど、火はまだ、そこにない。
手が震えていた。
火を見ると、胸の奥がざわつく。
あの夜の記憶が、まだ消えていない。
「……また、燃えたらどうしよう」
ラディは、かすれた声でつぶやいた。
背後から、セシルがそっと近づいてきた。
彼女は何も言わず、ラディの隣にしゃがむ。
しばらくの沈黙。
やがて、セシルが火打石を手に取った。
「……貸して。代わりにやる」
その声は、やさしくも、まっすぐだった。
カチン。
火花が散る。
もう一度。カチン。
三度目で、火口に火が移った。
小さな炎が、薪を舐めるように広がっていく。
ラディは、その光を見つめていた。
まるで、自分の中の何かが、
少しだけ溶けていくようだった。
セシルが、そっと言った。
「……いつか、自分で灯せるようになるよ。
そのときは、私が隣で見てるから」
ラディは、うなずいた。
火のぬくもりが、指先に届いていた。
『秩序の火・伍
灯せなかった。
火を恐れ、手を伸ばせなかった者。
けれど、隣に誰かがいれば、
火は、また灯る。』
“秩序の火”伍つ目は、**灯せなかった**。
火を恐れる気持ちは、
決して“秩序違反”ではありません。
むしろ、火の痛みを知っているからこそ、
その手が止まるのです。
でも、誰かが隣にいてくれたら、
その火は、また灯るかもしれない。
火の章は、強さだけでなく、
“ためらい”や“支え”も記録していきます。
また、次の火で。




