ep.133 第三の扉、ヒメルの拒絶
記憶の交差点を離れ、
火の輪は再び回廊を進んでいた。
「……あれ」
トモエが足を止める。
「また、扉が光ってる」
ルアがそっと近づく。
今度の扉は、
青白い風に包まれていた。
「ヒメル」
孝平が、そっと名を呼ぶ。
「……わかってる」
ヒメルが前に出る。
「行ってくる」
扉の向こうは、静かな書庫だった。
天井まで届く本棚、
誰もいないのに、ページをめくる音だけが響いている。
ヒメルは、ゆっくりと歩き出す。
「……ここ、知ってる」
本の背表紙には、
すべて“名前”が書かれていた。
「“アカネ”」「“ユウリ”」「“ナギ”」……
けれど、どこにも“ヒメル”の名はない。
「探してるの?」
声がした。
振り返ると、
自分とそっくりな少女が立っていた。
「……誰?」
「あなた。
でも、“名を持っていたころの”あなた」
「……そんなの、いらない」
ヒメルが背を向ける。
「名なんて、持っても失うだけ。
だったら、最初からいらない」
「それでも、火の輪にいるのはなぜ?」
「……」
「誰かに呼ばれるのが、
本当は、こわいんじゃない?」
ヒメルは、黙って立ち尽くす。
風が、書庫の中を吹き抜ける。
そのとき、
一冊の本が、棚からふわりと落ちた。
表紙には、
“ヒメル”と書かれていた。
気づけば、ヒメルは回廊に戻っていた。
手には、その本が握られている。
「……おかえり」
孝平が声をかける。
「……ただいま」
ヒメルは、ほんの少しだけ目を伏せた。
「名は、まだ読まない。
でも、捨てるのもやめた」
第三の扉は、ヒメルの記憶。
名を拒んだ彼女が、
“名を持っていた自分”と向き合う時間でした。
彼女が手にした本は、
まだ開かれていません。
けれど、それを持ち帰ったことが、
彼女の旅の大きな一歩です。
次回は、第四の扉。
火の輪の中で、もっとも“名に近い”者の記憶が開かれます。
Von Voyage――名を拒んだ静かな書庫で。




