ep.117 名を問う風
影は、舟のそばに浮かんでいた。
輪郭はぼやけ、声もかすれている。
けれど、その存在は確かだった。
「……わたしは、だれ……?」
風が、かすかに震えている。
ソレイユが、舟のへりに立った。
胸の“名前の種”が、じんわりと熱を帯びている。
「あなたは……」
言葉が、喉の奥でつかえる。
名前を知らない。
でも、何かが、確かに呼応している。
「名前って、なんだろうねぇ」
トモエが、火壺のそばでつぶやいた。
「呼び方じゃないの?」
ミミルが首をかしげる。
「でも、呼ばれなくなったら、どうなるの?」
「……消える」
カイがぽつりと言った。
「呼ばれない名前は、風に溶ける。
誰にも届かず、誰にも思い出されず、
ただ、影になる」
「……それが、あれか」
孝平が影を見つめる。
「わたしは、ここにいるのに……
だれも、わたしを、しらない……」
影の声が、風に乗って揺れる。
「……だったら」
ソレイユが、そっと手を伸ばした。
「いま、ここで、呼ぶよ。
あなたの名前を、いっしょに探す」
「……ほんとうに?」
「うん。火の輪は、そういう旅だから」
影が、かすかに震えた。
風が、舟のまわりをくるくると回る。
「……ありがとう」
「わたし、きっと、思い出せる……」
影は、ふわりと風に溶け、
その場に、小さな光の粒を残した。
ソレイユの胸の種が、
ほんの少しだけ、芽を出した。
“名前を失った影”との対話。
ソレイユの「いま、ここで、呼ぶよ」という言葉が、
とても大切な火を灯してくれました。
名前とは、呼びかけること。
そして、呼び返してもらうこと。
火の輪の旅は、
そうやって“名もなきもの”に光を灯していくのかもしれません。
次回は、影の残した“光の粒”が導くもの。
風の国の輪郭が、少しずつ見えてきます。
Von Voyage――名を呼ぶ手のひらに。




