ep.116 風の影、名もなきもの
朝焼けが、まだ海を染めきらない。
その隙間を縫うように、風がざわりと揺れた。
「……来る」
ルアの声が、低く響いた。
「何が?」
孝平が身を起こす。
「風の中に、形がある。
……あれは、“影”です」
舟の前方、海の上に、
もやのような影が浮かんでいた。
それは人のようで、人ではなく、
風のようで、風でもない。
「……あれ、生きてるのか?」
カイが火壺を抱えたまま、前に出る。
「風の国には、“名を失ったもの”が漂うと聞きます」
モントが舵を固定し、立ち上がる。
「名前を忘れた者は、形を保てず、
風の中で影になる」
「じゃあ、あれは……」
孝平が言いかけたとき、影がふわりと近づいてきた。
「……たすけて」
風の中から、声がした。
「……だれか、わたしを、しってる?」
「……!」
ソレイユが、胸を押さえる。
「また……あつい……」
「名前の種が反応してる」
ヒメルが駆け寄る。
「ソレイユ、無理しないで!」
「でも……この声、さっきの風と同じ……
“さがしてる”……」
影が、舟のすぐそばまで来た。
その輪郭は、ぼやけていて、
でも、どこか懐かしい気配があった。
「……どうする?」
孝平が、火の輪の面々を見渡す。
「助けるのか? それとも……」
「助ける」
ソレイユが、はっきりと言った。
「名前を、返してあげたい」
舟の上に、風が渦を巻く。
影が、ゆっくりと舟に手を伸ばした。
火の輪の旅が、
新たな段階へと踏み出す音がした。
風の中に現れた“影”。
それは、名前を失った存在――
風の国の“迷い子”かもしれません。
ソレイユの“名前の種”が反応し、
彼女の中にある何かが、
この影と呼応し始めました。
次回は、影との対話。
名前をめぐる、最初の“火の輪の選択”です。
Von Voyage――影に名を。




