ep.110 Von Voyage
夜明け前の海は、まだ眠っていた。
波は静かに砂を撫で、空は薄く青みを帯びている。
火の輪の舟が、波打ち際に浮かんでいた。
孝平は、丘の上に立っていた。
この島に来た最初の朝、目を覚ました場所。
風がよく通る、静かな場所。
「……ここから始まったんだな」
ふと、背後から甘い香りがした。
「やっほ~、孝平くん♪」
振り返ると、そこにいたのは――
ふわふわの耳を揺らす、白いローブの少女。
金の刺繍が朝の光を受けて、やわらかくきらめいていた。
「……うさちぁん」
「うんっ、久しぶり~! 火の輪、がんばってるねぇ」
「見てたのか」
「もちろん。だって私、“風の案内人”だもん♪」
孝平は、少しだけ笑った。
「……来てくれて、ありがとう」
「ううん、こっちこそ。
君が“止まってくれた”から、私はここに来られたんだよ」
「止まったら、崩れると思ってた」
「でも、止まったから、火が灯ったんだよ。
そして今は、進むとき。
だから――」
うさちぁんは、くるりと回って、
手のひらに小さな風の粒を浮かべた。
「Von Voyage、孝平くん」
「……それ、どういう意味だ?」
「風の国の言葉だよ。
“風に導かれ、火を運ぶ旅”って意味~。
たぶん。うさちぁん語だから、正確じゃないかもだけど♪」
「……らしいな」
「ふふっ、でしょ?」
うさちぁんは、そっと孝平の胸に風の粒を押し当てた。
その瞬間、風がふわりと吹いて、
どこからか、風鈴の音がちりんと鳴った。
「じゃあね、孝平くん。
“たのしい”を、たくさん見つけてきてね」
「……ああ。Von Voyage、うさちぁん」
うさちぁんは、にっこり笑って、
風に乗って、空へと消えていった。
舟の前に戻ると、火の輪の面々が集まっていた。
「遅かったな」
カイが火壺を抱えたまま、静かに言う。
「ちょっと、風に挨拶してきた」
「風に?」
「……まあ、そんな感じだ」
ミミルがぴょんと跳ねた。
「Von Voyage~!」
「また変な言葉を……」
ヒメルが呆れたように言う。
「でも、なんか……いい言葉かも」
トモエが笑った。
孝平は、舟に乗り込む。
風が、帆をふくらませた。
「じゃあ――」
孝平は、火の輪の仲間たちを見渡す。
「Von Voyage」
舟が、静かに海へと滑り出した。
火の輪、ついに海へ。
そして、うさちぁんが再び現れました。
彼女の言葉「Von Voyage」は、
火の輪の旅を祝福する、風の国の言葉。
この世界だけの、風の呪文です。
ここから始まるのは、
風と火の、そして名前の物語。
年の瀬の夜、
物語の火を囲んでくれてありがとう。
Von Voyage――また、次の話で。




