56 ノーカウント?
心核血晶がローザの胸元で浮かび上がった。
抱き寄せる左腕が血に濡れた。血が溢れ、痙攣する。イズルは彼女の背をさすり、傷跡を探す。
ローザの体温が失われる。唇、頬、首筋と長時間雨に打たれた体のように、冷たくなっていく。
イズルは起きている現象を整理する。心核血晶がローザの体内から現れた。
この事実から融合されかかっていたローザの魂と心核血晶が分離したと推測した。この点において、融合の解除魔法は成功している。ならば、なぜローザに傷が現れた。
解除魔法の代償か?
リィーゼに施した意思縛りの呪いが思い浮かぶ。彼女の力を抑え込む代わりに、リィーゼの意志を奪い、イズルは魔法を失った。
ローザの傷も代償の可能性はある。だが、とイズルには別の考えを巡らせる。
解除魔法を構築するにあたり、ローザへの代償については最大限に配慮した。ローザに傷が出るなら、自分に出てもいいはずだ。
仮にこの現象が代償でないのだとしたら。
ファラの話を思い出した。
ファラがローザと心核血晶を融合させたのは、魔獣の爪に背中を裂かれたからだ。命にかかわる傷を心核血晶によって塞いだ。
つまり、解除魔法が成功しているならば、心核血晶を取り除いたことにより、傷口が開いてしまったと考えられないか?
仮定の話だ。確信はない。
いずれにせよ、解除魔法が成功しているなら続行だ。
複雑な行程の解除魔法と並行させて、脳内で最適な回復魔法を組み上げる。魔力を左手に集め、最適化を図る。
左眼が脈打つ。千年彗星の膨大な魔力にさらされながらも、効率を重視して左眼と左手に収束させる。
魔力の流れを増大させる。左眼の疼きが脳へと広がった。まだ足りない。解除魔法の構造を書き換え、代償が自分に向くように組み替えた。
その途端、レヴィアから受け取る魔力が増加した。怒りを叩きつけるような激流だ。ファラの魔力もイズルを癒すように体内を駆けた。
言葉にせずとも想いが伝わる。それが魂の共鳴だ。
そして、最後にローザの想いがイズルの中で虹を架けた。
ローザの決意だった。心核血晶を拒絶し、運命と戦おうとしている。
手を握った。冷たくなる彼女に温もりを与えた。
二人を取り囲む光球に風が渦巻いた。家族の星が輝く。千年彗星の神秘が注ぐ。ファラとレヴィアの力が絡まる。イズルが全てを届ける。
そして、ローザが未来を掴もうと、イズルの手をきつく握り返した。
そこには温もりがあった。首筋が温かい。頬に体温が戻る。触れた唇が動く。空気を求めるように、開いた。
ローザが、目を開けた。
イズルは彼女から唇を離す。
「キ……ス?」
噛みしめるようにローザは人差し指で唇をなぞった。
「これは人工呼吸だ。いやならノーカウントにしとけ」
「ノー……カウント……?」
意識がはっきりしないのか、淀みの残った目でイズルの言葉を繰り返す。
ローザは目を細める。
「特別、だよ」
握っていた手に力が込められた。
「この人工呼吸は、特別だよ」
ローザの瞳に、イズルが大きく映った。穏やかな水面にそっと落ちた木の葉のように揺れる。
ゆっくり、瞬きをする。再度、瞬きをした。
涙が、零れた。
「カウントする」
涙を流しながら微笑み、唇に触れていた人差し指を立てた。
「イチ?」
「だってゼロがイチになったんだよ、だからなおさら……」
息を止め、言葉に詰まる。頬が染まった。
視線が左右に揺れ動いた。手で視線を遮ろうとする。
イズルは彼女の手首を掴み、動きを封じた。
ローザの腕から力が抜ける。
言葉が、溢れた。
「なおさら……特別なんだよ」
ごまかすようにローザは破顔する。そして人差し指を見つめると、イズルの唇に移動させて触れた。
「忘れられるわけないじゃん、こんなの。一生覚えてるよ」
濁った空気を吐き出すようにローザが言った。澄んだ空気を吸い、イズルにしがみつく。唇が首筋に触れた。
「私、勝てたよ。みんながいるこの世界に戻ってこれた。あきらめてたけど、頑張れた」
イズルは壊さないように背中に手を回す。年の割に幼い彼女の体は、軽かった。
鼓動を感じる。
「イズルが願いを届けてくれたから」
ううん、首を振る。
「イズルが叶えてくれたんだ」
濡れた首筋が冷たい。触れた唇から熱い吐息が漏れた。
「ずっと、ずっと、お願いしてた。星空を眺めて、流星を探して、でも叶うわけがないんだって」
吐息は嗚咽となった。彼女は声を堪えようとした。
「それが叶うなんて思ってなかった」
それでも泣き声は唇を割り、部屋に響いた。ローザは何とか声を押さえようとして、深い呼吸を繰り返した。
「ありがとう、助けてくれて」
掠れた呼吸に乗って気持ちが届いた。
イズルは泣きじゃくる彼女をさすり、気持ちを落ち着かせようと背を叩いた。
光球が消えた。千年彗星が目を閉じる。
虹色の空は消え、新たにページが捲られる。いつもの夜空に戻り、ファラとローザを見守る家族の星が輝き出す。
「オレは、きっかけを作っただけだ」
母親の鼓動を聞かせるように、背を叩く。
彼女たちの両親が娘の救いを願った。その願いが千年彗星に乗って、オレに届いた。オレはローザを想う家族の願い、短冊を、千年彗星の尾に結びつけただけ。
何よりも、最後に運命に勝ち、未来を勝ち取ったのはお前だ、ローザ。
イズルは心の中で呟く。
背後の扉が開く。ファラが駆け込んできた。ローザの名を叫ぶ彼女は、笑顔でありながら、同時に泣き崩れている。姉妹揃って、同じ表情だ。
ありがとう、くしゃくしゃの笑顔でファラが言う。
だから、オレはきっかけを作っただけだ。
イズルはローザから離れ、ファラの頭にぽん、ぽん、と二度触れた。
ずっと我慢してきた涙だ。今度は素直に好きなだけ泣けばいい。次に流す涙は、二人そろっての嬉し涙だと決めていたのだから。
空を見上げる。虹色の尾を引く彗星の姿はなかった。天井の穴から見えるのは、ファラ、ローザ、そして二人の父と母。
泣き声は、家族の星まで轟くほどの勢いだった。星空の元に響き渡る。虫たちが祝福の歌を奏でる。
イズルは扉を閉めた。家族で喜ぶ時間も必要だろう。