55 この世の果てで
雨が、降っている。
ザー、ザー、ザー、ザー。
全身を飲み込むような音を立てて、女の子を濡らしていた。
昼なのか夜なのかわからないのは、雨雲が太陽を遮っているから?
女の子は俯いている。髪が濡れて額や頬に張り付いていた。顔も表情も分からない。
雨に打ち付けられたまま動かない。どうしてだろう。
彼女は雨を浴びる。
杭で打ち込まれ地面に張り付けられても、まだ罪を注げない。
そんな彼女の心情を理解した。
彼女の指先から赤い血が流れ落ちる。
「返り血、落ちないな、なかなか」
袖についた赤い染みをこすった。
「化け物の血は落ちにくい、全然落ちない」
雨が強くなる。染みはなくならない。広がっていた。落ちるわけはないよ。それは化け物の血じゃない。
私には分かっていた。だって、ほらそこに人が転がってる。
赤い染みはただの血じゃないんだ。
それは犯した罪だった。
一人、二人、三人、転がる人の数が増える。染みが増える。雨の量が増しても、染みは増えるだけ。
「こんなに化け物を倒したのに、どうして血が落ちないのよ」
落ちないよ、だってあなたが奪っているのは人の命。
声をかける。彼女は顔を上げた。笑いながら絶望している。前髪から雨のしずくが垂れた。
きっと狂ってるんだ、この私は。
ローザは、私はいつか、取り返しのつかない罪を犯す。
分かってた。私はファラにひどいことをお願いしている。
私のことを殺してなんて。
ファラが断れないことを知っていて頼んだ。私が罪を背負いきれないから、ファラに罪を背負ってもらう。
妹を殺すという罪を。
異物と交わり混濁し、朧気になった記憶の中、ファラとの最後の会話だけが、かろうじて私をまだ繋ぎとめている。
私がファラを幸せにできないのは当然だ。
記念碑広場で笑ったファラを見てイズルに嫉妬した。私じゃ、ファラを笑わせられない。
ファラの笑顔を否定しながら、私自身どこまで自分の笑顔なのか分からない。いつもはしゃいで笑うだけ。
ファラに罪を背負わせる罪悪感から逃れようとして、彼女も笑ってくれたらと。
「嘘つき」
ファラに吐いた言葉が今さら胸に突き刺さる。
嘘つきは私だ。笑わせてあげるって約束したのに、結局泣かせてしまった。
そう。だから、こんな私は消えてしまえばいい。ファラに罪を押し付けずに、自分の犯す罪は自分で背負うべきなんだ。
この暗い淀みに身を浸せば罪を背負える。そう思うと楽になれた。意識が薄れ、ただ微睡むだけの感覚。それこそが追い求めてきた幸せ。
任せる。後は好きにしてくれればいい。
だから、私は「娘」になることを拒絶しなかった。
なのに、どうして、この深淵に溺れてもまだ、小さな輝きが二つ見えるのか。それはまるで、夜空に輝く星のように私の心を穿つ。
それは痛みだった。生きる苦しみをまだ私に与えるの?
「見てごらん」
深淵に響く声は誰のものだったのか。
大きくなって、寂しいときは星空を見上げるんだよ、そこにはいつも、お父さんとお母さんがいるからね。いつでも二人を見守っているよ。
お父さんの声だ。
よく見ると、赤と白の輝きの間に小さい星があった。
「お父さんに教えてもらった。あの星たちは、私たち家族なんだって。だから夜空を見上げるとあの星を眺める。お父さんとお母さんはきっとこの空にいる」
これは私の声。誰に話したんだっけ?
視界が霞む。ここは、どこ?
誰かが私を抱きしめてる。宙を漂うように体がふわふわしていた。
壊れた天井から見えるのは、家族の星、と彗星?
続かない。意識が、遠のく。
家族の星を眺めるといつも流星を探した。でも願い事をする前に消えちゃう。彗星だったら間に合うかな。
でも、きっと私の願い事は届かない。
私には普通の幸せが遠い。世界の果てのもっと先、この世の果てまで追いかけないといけないくらい。
だから、もう立ち止まっても……
「届かないなら、オレが願いを届けてやる」
イズルは何を根拠にそんなこと言うんだ。いつも自信満々で、軽口をたたいて、女の子には甘くて、どうしてそんなに希望をもたせるようなことを言うの?
「願いが届かなかったとしたら、代わりにオレが叶えてやる」
何でそんなに適当なこと言うんだよ!
暗闇に亀裂が生じた。地平線から天頂まで、ヒビが入ったかと思うとガラスのように壊れた。
黒い破片が降る。剥がれ落ちて、空を満たしたのは七色の輝きだった。
「何これ?」
思わず声に出した。久々に聞いた自分の声だった。
もしかしてイズルが?
う、そだよね。
黒い破片は虹に染まって、地上に到達することなく消える。世界中に虹がかかった。木々も、花も生き返る。
お父さんとお母さんの声が聞こえる。二人とも、この世にもういない。でも、確かにそこに存在する。星空で私たちを見守っている。
そよぐ風にファラを感じた。ファラの息吹が私の手の中にある。大きな力が私の意識を呼び覚ます。
届いた、の?
「願っていいの?」
問いかけた。
お願いします。
私は祈った。
七色が、失われた。
世界は闇に満ちた。雨が降り出した。冷たい。雨が肌から注ぎこまれるようだ。吐く息が白い。
太陽の光は雨雲に遮られて私の手元には届かない。いや、届かないのは月の光か。そこは昼でも夜でもなかった。
私は雨で、この身の血を洗い流そうとしていた。べっとりと濡れた髪が、額と頬に吸い付く。
決して罪はぬぐえない。肉体を奪われ、私は人の命を食らって生き永らえる、それが私の運命。
だから私は自分が自分であることを諦めた。
それは間違いだった。
私を想ってくれる人がいることに気づいていなかったんだ。
誰か、誰か助けて。
どうかお願いします。
私の、私たちの娘を。
そのためには何でもします。
届いて。
これが私たちの最後の願い。
ありがとう、お父さん、お母さん。
私にも伝わったよ。
私に心核血晶をくれたファラ。
私のためにしてくれたこと、知ってる。
イズル、お父さんとお母さんの願いを届けてくれてありがとう。
私の願いを届けてくれてありがとう。
私が今、この闇に支配されているのはね、きっと戦えってことなんだ。
奇跡を願うだけじゃだめ。
ここが、この世の果てならば、私が幸せになりたいのなら、祈るだけじゃ掴めない。
望む未来を自分で勝ち取るべきなんだ。
私がこの闇を再び虹色に塗り替える。
お前に負けてたまるか!
だって私はこんなに強い力に支えられている。
きっかけを与えてくれた、それだけで感謝だ。
私は雨に磔にされる未来を、青空を見上げられる、そんな、希望の未来に変える。
これが私の願い。
違う。
私が、戦う理由だ。