51 最後のキスの味
妻セリーヌに贈ったドレスの生地はくたびれ、よれて、破れていた。
自分は老い、彼女はあの頃のままの姿だ。かつての鮮やかな青は、二十年の歳月の経過によって、色褪せていた。
それでも、着続けてくれていることにガルドは感謝した。彼女は心核血晶によって融合され、意識を奪われてしまった。
彼女がなぜ、未だにガルドの誕生日プレゼントを纏うのか、アルフレッドすら疑問を抱くほどだ。
もはや知る由はない。
「頼む、イズル。セリーヌのことは、俺が清算すべきなんだ」
ガルドは再度哀願し、セリーヌを牽制する。彼女の意識もガルドに向けられていた。
「オレの邪魔をしないなら好きにすればいい。レヴィアもいることだしな」
背を向けたままイズルは言い、ファラを伴って屋敷に向かった。
ガルドは後方のレヴィアに呟く。
「レヴィア先生。あいつの、セリーヌのことは任せてくれ。俺のけじめなんだ」
「敗戦濃厚になれば手出ししますよ。私の最優先は、イズルです」
「十分だ」
この状況は全て自分が招いてしまったことだ。
家族への執着が強いほど、それはお前を狂わせるぞ。アルフレッドの言葉は鎖となって、ガルドを縛り上げた。
妻と息子を取り戻したい。その想いから逃れる術などなかった。
ガルドは、魔人化したとはいえ、妻と子から離れることはできなかった。アルフレッドの屋敷に出入りし、彼の手足となって働いた。
難易度の高いクエストにはアルフレッドが同行した。
その日の相手は突然変異型のゴブリンウィザードだった。高い知能と魔力を備えた魔物だ。
剣士タイプとして、当時、単独で攻略していたガルドには、魔力を操り、集団を指揮する魔物は分が悪い相手だった。
ここではかつてセリーヌから教わった技術が役に立った。
力づくではなく、最小限の動きで最大の敵を倒す。どれだけ労力を押さえて、敵を倒すか。体が自然に動いた。ゴブリンウィザードが吐き出した心核血晶はアルフレッドが求めていたものだった。
これで、ようやく完全な家族になれる、とアルフレッドは迷うことなく心核血晶を取り込んだ。
心核血晶は肉体や精神を崩壊させる危険を孕む。そんなことなど頭にないかのようだった。そこでようやくガルドは知った。
アルフレッドは魔族として生まれ変わり、新たに家族を構築しようとしているのだと。
アルフレッドは眠りについた。このまま永遠に眠っていて欲しいと願った。
妻と子を説得しようとしたが、彼らは屋敷から離れることなく、生気のない視線でガルドを見るだけだった。
ガルドはアルテナ学院で教員として生徒を指導することになった。図書塔で心核血晶の融合を解除する術を探した。
二十年は長いようで短かった。そう思いたかったが、ガルドにとっては長かった。長すぎた。
妻と息子は二十年間、何も変わらない。ガルドだけが老いていった。二十年間、家族から他人を見るような視線を受け続けた。
俺はもうこの視線に耐えられない。自らの命を断とうとしたとき、アルフレッドが目覚めた。
セリーヌとノエルに変化が起きた。白く濁った滴が二人の頬を伝ったのだ。
そう。今の彼女と同じように。
決断できないまま、ガルドはセリーヌとノエルを守り続けた。アルフレッドのためではない。
それが結果として新たな犠牲者を生むことになったとしても、屋敷から離れられなかった。
「なあ、セリーヌ。なぜお前は泣いてるんだ?」
階段を下りてくる彼女は、結婚式当日の彼女とだぶる。
ガルドと対峙したセリーヌの濁った瞳から、白い滴が流れた。
「なぜ、俺が送ったドレスをまだ、着続けてくれてる?」
「泣いてる?」
セリーヌは頬に触れた指を眺めて首を傾げた。
「ドレス?」
古びたドレスを摘まむ。アルフレッドの仕立てたドレスを着ようともせず、彼女はロイヤルブルーのドレスを纏い続けた。その理由を、彼女の口から聞くことは叶わない。
セリーヌもノエルもアルフレッドの前では決して白い涙を流さなかった。ガルドが話しかけたときだけ涙を零した。
彼女たちに泣いているという自覚はない。感情もない。魂は消え失せ、魔人と化している。肉体が魂の残滓に反応している。それはもはや生きていると言えるのか。
「ドレス……」
セリーヌはドレスを翻した。千年彗星の光はそんな彼女にも届き、ドレスに虹の色どりを与えた。
「似合ってるかしら?」
同じセリフだ。無表情な彼女に、過去のはにかんだ笑顔が重なる。ガルドにはそれだけで満足だった。魂の残滓がこんな安物のドレスを選んでくれたのだ。
「セリーヌ、お互いの鎖を断ち切ろう」
ガルドは自由を求めた。
何より、妻に自由を与えたい。
剣を構える。セリーヌは俊敏な動きで剣を抜く。
俺が全てを終わらせないとならない。彼女を鎖から解き放つ。こればかりは他人に任せていいものではない。
ガルドは時計塔での出来事を、アルフレッドの部屋でゴブリンを通して見た。
イズルとの戦闘で消失したとき、確かに最後、ノエルは「おとうさん」と言った。
アルフレッドを示す「父上」ではなく、おとうさんと言い、微笑んだ。ガルドはその瞬間、息子が救われたのだと知った。
息子を奪ったイズルに怒りを持った。同時に感謝をした。やっとアルフレッドから解放されて自由になれたのだと。
今度は自分の番だ。誰かに委ねるものではない。妻を救うのは、夫である自分の役目だ。
だからこそ、レヴィアに手出ししないように頼んだ。俺が清算すべきことだ。
向かい合った互いの魔法剣が、降り注ぐ七色を反射する。「お揃いだね」と彼女が言った互いの剣は、結婚の象徴だった。今から別離の象徴になるとは皮肉なものだ。
なあ。最後に問いかけた。どうしても聞きたかった。無駄な問いかけだと知りつつも訊ねた。
「お前は俺と出会って、一緒になって、幸せだったのか?」
答えはない。セリーヌの剣が闇を駆け、ガルドの肩を貫いた。
早い。全然鈍ってないじゃないか。お前が引退してから何年経ってるんだよ。俺なんかより、お前の方が才能があったのにな。
血がガルドの胸元に広がった。
セリーヌの口から吐き出されたものだった。
ガルドの剣はセリーヌの中心に深々と突き刺さっていた。血にまみれた指がガルドの頬に届いた。
温かい。ぬくもりに身を任せようと瞳を閉じた。
願わくば、最後に千年彗星の奇跡を俺たちにも……
庭園の変貌を目の当たりにし、ガルドは微かにそう願った。
ひゅう、と風が、鳴った。
「私、幸せだったよ」
聞こえた。確かに聞こえた。セリーヌは血にまみれた指をさ迷わせ、ガルドの頬を撫でた。
彼女の意志を感じた。そこにいたのは二十年ぶりのセリーヌだった。
「私はいつでもあなたの妻だった。ありがとう……」
唇が重なった。二十年前の彼女とのキスは血の味がした。血のぬめりがセリーヌの想いを届けた。意志を奪われながらも彼女は想いを貫いた。青いドレスは彼女の最後の抵抗だった。
魂の共鳴。その境地にたどり着いたことを知った。