40 罪と報い10 ずっと一緒のはずだった
顔は涙でぐしゃぐしゃだ。
ローザの意識は消えていない。行くとしたら庭園の木のところだ。
走りながら何度も顔を拭った。追わないと、早く捕まえないと。でも捕まえたからってどうなるの。何が変わるの。
駆け巡る思考を振り払うべく、速度を上げた。
木が見えてきた。
二人いる。ローザともう一人は……
背格好でイズルだと認識した。心核血晶の扱いに慣れた手練れ。
ローザを見られた。
ゴブリンを握りつぶし、その魔力を奪っている。
殺される。
彼が見逃すはずはない。
人間ではなく、魔物として殺される。心核血晶として売買される。
こんなことなら、こんなことなら私がローザを……
せめて人間として。
殺せばよかった。
「ローザ!」
「……ファラ」
よかった。まだ自我がある。
歩を進めるとローザは後退した。
名を叫んだ。
ローザが悲鳴にも似た声を上げた。魔力が暴走している。頭上に巨大な魔力の渦が形成されて、弾け飛んだ。
視界を影がよぎった。魔力の波に背中をさらして、イズルが私を押し倒した。
何だ、この人は敵じゃなかったんだ。
ハンカチでイズルの額に滲む汗を拭った。
淀んでいた想いを吐き出して、残ったのは暗闇、だった。
真っ暗だ。
また、こうして闇に包まれてる。ローザと離れて暮らしてたあの頃と同じだ。
イズルはまた眠ってしまった。時計塔での戦いと、私をかばってくれたこと、彼の心身も限界に近いはずだ。しばらく眠っていて欲しい。
ローザを探さないと。庭園での魔力の使用は警報装置を発動させるには十分だった。緊急事態で安全委員会内の選抜メンバーが出動することになった。
ローザはどこへ行ったのだろうか?
問いかける。
現在警報装置は停止している。となると、学院内にはいない?
君たちを救う鍵だ。
時計塔での少年の言葉を思い出す。同時に彼がゴブリンを握りつぶす、鈍い響きが脳内に再生される。
彼の手に刻まれていた紋章は、私が夜中に庭園で見たものだ。ローブ姿のゴブリンに浮かんだ紋章。そのゴブリンを通して会話した相手が、もしかすると少年の言っていた「父上」なのだろうか。
時計塔に手がかりがあるかもしれない。廊下へ向かう。
躊躇っている場合じゃない。
安全委員会の選抜メンバーが出動している。2年、3年で構成された選りすぐりだ。
魔術部門は主塔、供給塔を中心に、前線となる校門付近は剣術部門が担当する手はずだ。
校門まで来ると、顧問のガルド・ブレイカー先生に事情を話す。妹が行方不明であること、私が安全委員会の委員であることから、外出の特別許可が下りた。
生温い風は、体の芯に重くのしかかり、歩く速度を鈍らせた。時計塔はこんなにも遠かったのか。心身にのしかかった負担に抗うほどの気力は枯れてしまった。
ただ、確かに、空に渦巻く流れは私に届いている。
天空を引き裂く千年彗星は、もうすぐ肉眼で確認できるはずだ。肉体の疲労は残されたままなのに、指先から漏れ出るように魔力が迸る。
これが千年彗星の効力なのか。人々、魔物に対して等しく魔力を与えているのだろうか。
ここ数日の騒動とは対照的に、街は静寂に包まれていた。街の境界の防衛に人員が割かれているのも要因かもしれない。
機器の故障や昼間の活況を忘れたかのように、吹き抜けた風が落ち葉を舞い上げた。
たった一陣の風がやけに不安感を煽り立てた。かき乱されているのは、私だけではないのかもしれない。魔力を充実させる反面、精神の不安定さをもたらす。
これこそが、幸福も不幸ももたらすという千年彗星の二面性なのだろうか。
街全体にうっすらと霧がかかっている。千年彗星の不幸をもたらすという側面が、色濃く出ているように思えた。そう考えるのが自然なほどに、街から人の気配が薄れていた。
霧の隙間を縫って、時計塔の文字盤に月光が降り注いでいた。時刻は何とか確認できる。
晴れた日なのに、家族の星だけ雲に隠れてしまっていた。遠くからざわめきが聞こえる。
路面を回る車輪の音が響いた。夜霧に紛れて方形の影が映る。上部では複数の影が踊っていた。車輪が路上を跳ね、低い唸り声を立てて、目の前で停止した。
黒い馬に、黒い幌の馬車だった。紫色に発光している。
首を軋ませながら、御者は私を見下ろした。その額にはあの紋章があった。
幌の上ではニエ、ニエ、と奇声を上げ、五匹のゴブリンウィザードが次々に杖を振りかざして宙返りをする。
御者は言葉を発することなく私を見つめる。乗車以外の選択肢はなかった。ローザにつながる糸口は、この紋章だけなのだから。
幌の内部は外部より湿度が高く、カビの臭いで充満していた。
五人の女性が一点を見つめたまま、ぼんやりと座っている。着ているものは様々だ。高貴な衣装から、ほつれの目立つ服を纏った女性もいる。
共通しているのは、身じろぎもせず、そこに座り続けているという事実だけだった。頭上でどすんどすんと、ゴブリンたちが杖を叩きつける。
馬車が動き出した。
ニエ、ニエ、という言葉が車内に降ってくる。
ニエが生贄を示すのなら、この女性たちはローザに差し出されるのだろうか? そんな考えが浮かび即座に否定する。あるわけがない。
ローザが人間を襲うなんてありえない。
ドン、とゴブリンが杖を下ろす。
思い出した。ローザがゴブリンを握りつぶしていた。
ローザは人間だけは襲わない。
『嘘つき』ローザの言葉がよぎる。
ローザが人間を襲うなんて最悪の瞬間なんて、訪れるわけが……
『ファラは自分のことばっかりだ』
全身の力が抜けた。ローザはずっとこんなことを想像していたんだ。なのに私といる時間を大切にして、笑って、楽しませてくれた。だから死のうとした私を許せなかった。
私が……私ができることは……
もうない。
誰か。
た……
「……すけて」
私の声は誰にも届かない。車輪の音に打ち消され、暗闇に飲み込まれていくだけ。
わかってたこと。そんな都合のいい話なんてあるわけがない。私がしたことは私が責任を取らなければならない。約束したんだ。約束を果たすまで、このガラスのカケラが消えることはない。
髪を飾っていた鈴を外し、耳元で鳴らした。
これがある限り、私たちはずっと一緒のはずだったのに。