31 罪と報い1 暗灰色の空
「見てごらん」
お父さんの声はいつだって優しい。柔らかな緑に横たわったお父さんの両脇に、私とローザがしがみつく。漆黒の闇に煌めくのは私たち家族の星。
力強い赤の星はお父さん、優しく眩い白の星はお母さん、間の小さな星は私とローザの星だって、お父さんが教えてくれた。
だからいつもお父さんとお母さんは私たちを見守ってくれてるんだって。
大きくなって、寂しいときは星空を見上げるんだよ、そこにはいつも、お父さんとお母さんがいるからね。いつでも二人を見守っているよ。
星空の下でいつもお父さんはそんな話をしてくれた。
私たち姉妹はその話が大好きだった。心強くて、誇らしい気持ちになれるから。
そして流星を見つけると、いつもこう願う。
この幸せがずっと続きますように。
でも流星が消え去るのはとても早くて、いつも最後まで願い事を言えなかった。
カーテンを開けると、春の柔らかな日差しが目に飛びこんだ。待ちに待ったピクニックの日。しばらく朝日を浴びていると体がぽかぽかしてくる。雲一つない青空が気持ちいい。
晴れてよかったね。太陽が語り掛けてくるみたいなニコニコとした光だ。ずっと楽しみにしていたから、雨が降らなくてうれしい。
窓際に飾った、坊主頭の人形を弾いた。揺れる人形もうれしそう。雨が降らないためのおまじないは効果てきめん。立派な魔導士のお父さんから教わったんだもん。そりゃ効くよね。
お父さんはね、学校の先生で一流の魔導士なんだ。お部屋の棚には本が詰まってる。休みの日も訓練したり勉強したりするから、自由な時間をなかなか取れないの。でも今日はみんなで遊びに出掛ける特別な日。
お母さんは、みんなのためにお弁当の用意をしてくれているはず。
きれいな緑の上にシートを敷いて、お父さんとお母さんと私とローザの四人で、おいしいお弁当をいっぱい食べよう。
かわいいお花も咲いてるといいな。ローザと一緒に探しに行こう。
かくれんぼもしよっと。
私は隣で寝ているローザの体を揺すった。
「どうしたの、ファラ」
あくびをしながら目をこする。ローザとはいつでもどこでも一緒。身長だって体重だって一緒。同じように勉強して同じように育ってきた。
好きな食べ物も、嫌いな食べ物も、得意な教科、苦手な教科も同じ。姉妹というより、気が合う友だちといった感覚に近いのかもしれない。
窓の外を見せると「わあっ」とかわいい笑顔で、ローザが窓に飛びついた。
庭を照らす光の中で、小鳥が散歩をしている。小鳥はガラスにへばりついたローザに気づくと、びっくりして空へと飛び立ってしまった。
意味もなく二人で笑い転げた。ローザの笑顔は本当にかわいい。私はローザの笑った顔を見るのが大好きだった。だってこっちまで気持ちが弾んでくるんだもん。
ベッドで足をバタバタさせる。こんなことしてたら、またお母さんにベッドが傷むって怒られるかな。でも止まらない。だって楽しいんだもん。
予定が決まってから、ずっとローザと楽しみにしていて、当日を想像して絵を描いて、雨が降らないように人形も作ったんだ。やっとその日がやってきた。うきうきした気持ちが爆発して、どんなことでもおかしく思えちゃう。
朝ごはんを食べて顔を洗って歯を磨いて、二人で選んでおいた水玉のワンピースを着たら、出発の準備は完了。
家からしばらく歩いたところにある山の頂上が目的地。毎年行ってるところだから、場所は知ってる。
山のふもとにはソフトクリームを売っている店がある。帰りに買ってもらおう。ローザがソフトクリームを食べると、毎回口の周りがべったり。その顔が面白くていつも笑っちゃう。今日も見てみたい。
山を登り始めて、途中の坂道では、白や黄色のちょうちょが花にまとわりつくように飛んでいた。ローザと手をつないで追いかけたり、スキップをしたり。お母さんが危ないから気をつけなさいと後ろから叫んでた。
お母さんは本当に心配症。いつも私やローザにあれをするなこれをするなって、心配ばっかり。でも私たちはお母さんが大好きだった。
お母さんは、よくじゃれて私たちに抱きついてきたりしてきて、顔にほっぺたをこすりつけてくる。私たちは嫌がる素ぶりをして見せるけど、実は喜んでいるというのはお母さんにはないしょ。
頂上についてお弁当を食べた。どんな豪華な食べ物よりも、私たちはお母さんのお弁当が大好き。中でも一番好きなのは卵焼き。ローザも一緒。
どうしてだろ?
うーん……
おかずが箱に敷きつめられていてきれいで、それで食べたらおいしいから、どんどん口の中に入れてしまって、喉に詰まって慌ててお茶を飲んじゃう。そんな感じ。
お弁当を食べ終わったらローザとお花を摘みにいった。花飾りを作って、お父さんとお母さんの頭に載せてあげた。
似合ってたよ。まるで王子様とお姫様。
並んだお父さんとお母さんは照れ臭そう。
そんな年じゃないって? 何で? いいじゃん。
ローザとのかくれんぼはね、範囲を決めてすることにしたの。広すぎると見つからないし、危ないしね。お父さんとお母さんは食後の休憩中。疲れたんだって。私たちはまだまだ元気なのに。
始めは私が鬼だった。お母さんの膝に顔を伏せて数える。
最後のぬくもりと香りは、一生忘れないと決めた。
十まで数えて顔を上げたとき、生温かい風が吹いて、髪を抑えた。いつの間にか雲が出ていたことに初めて気づいた。ローザはいない。
私はローザを探し始めた。お花畑の中、岩の陰、木の後ろ、ローザはいない。
どこ?
藪の近くまで来たところで、葉の擦れる音がした。
見つけた。
血まみれのローザを。
茶色い毛並みの魔獣がローザを抱えていた。背中に傷跡があって血がボトボト垂れていた。魔獣自身も手負いで顔や腕、足が赤く染まっている。
ローザと眼が合った。
逃げなきゃ。それが最初の感情だった。
妹が死にそうになっているのに逃げようとしている?
でも声が出ない、体が動かない、逃げることもできない。
そうじゃない。助けないといけないのに、痛みで呆然とするローザに見つめられながら私ができたことは、体中の震えを抑えられずに噛み合わない歯をがちがちがちがち鳴らすことだけだった。
勇気はどこ? 体のどこかにひとかけらでも勇気が残っていれば、ローザを助けられる。でも分かってる。そんなものどこにもない。
腿に爪を立てて無理やり前へ足を投げ出す。ローザを助けろローザを助けろローザを助けろ、命令を繰り返して進む。
もう少しで届きそうだった。
衝撃を受けて地面に体を打ちつけて、突き飛ばされたことを知ったのは私の代わりに貫かれたお母さんを見た後だった、お母さんの背中から太い腕が飛び出てた。よかった、とお母さんは私の名を呼んで逃げてと言った。
お母さんの血、だ。刃物みたいな爪からお母さんの血が溢れてた。記憶にべったりと張り付く血の臭いは、今でも私をたやすく絶望へ引きずり込めるほどの粘着性を帯びている。
にげてってなに、いやだそんなの、みんないなくなっちゃう。
魔獣の目が血を噴いた。お父さんが後ろから魔獣にしがみついて目をえぐった。地面に投げ出されてローザが呻く。助けなきゃ助けなきゃ動けるのは私だけ。
血を吐いたお父さんの胸に魔獣の腕が埋まってた。助けなきゃ助けなきゃ。
もうだれも動けない。足を引っ掻いて起きてこけて地面に爪を立てて体を引きずってローザの体を抱きしめた。ローザは瞼を閉じてた。
お父さんの腕は魔獣の口の中だった。
私を見て微笑むと、魔獣の体が爆発した。お父さんは膝をついて、そのまま倒れた。
あっ、という間にひとり。
なにこれ?
だれもいないわたしひとりだ。
なにこれ?
血の臭いだけが残っていた、誰の臭いだろう。もう何も分からない。
ふらふら歩き回っていると、お父さんの横に赤い石があった。
あ、しってる……これ……。
……だ。
踏み潰そうと足を振り上げて、止めた。
拾い上げて慌てて周りを見渡す。お父さんもお母さんも、もう息はなかった。
ローザは?
微かに唇が震えた?
私の妹……私の家族。もう誰もいない。
「ローザ! ローザ、返事して! ねえっ、ねえってば」
耳を近付けると、微かな呼吸音が聞こえた。でも体は血まみれ、こんなの治らない。
ローザが死ぬ。
そんな思いが実感となって、体中を満たした。
ひとりになりたくない、ひとりはいや、死なないで、いやだいやだいやだ。また起きて笑って。笑顔を見せて。
いきていきていきてローザ死なないで。生きて。
私のために。
きっと私は、ローザのことなんて考えていなかったんだ。
いつの間にか雨が降り出していた。
空は、暗い灰色の雲で埋め尽くされた。のしかかり、今にも落ちてきそうな空だった。心臓が重い。
私はもう、あんなにきれいな青空を見ることは、できない。
そんな、確信があった。
寒い。冷たい雨が私の心を凍てつかせた。
自分のことしか考えてなかった。自分のためだけに罪を犯した。術式なんて知らない。ただ願っただけ。
願って、祈って、そして何をしたのだろう?
覚えていない。手の中にあったはずの石が、ローザの胸の中に吸い込まれていった。
私は、ローザの命を弄んだ。