29 お別れ、だね
これは夢だ。
いつも見る夢。
オレはどこにもいない。
強いていうなら空気中をぼんやりと漂う塊。
至るところに光が浮かび、空間ではいくつもの映像が流れている。子供が生まれ笑顔で過ごした時間、そして過ごすであろう時間だ。時間はバラバラで、一つ一つをじっくり眺めることはできない。
忙しなく場面が切り替わり、新たに映像が映し出される。そんな中を揺れ動く。
一つの光が触れた。
たすけてタスケテ助けて。
そして、最後には体に穴を開けられる。
血を、吐く。まただ。
跳ね起きた。
心臓に手を置いた。動いてる。出血はなかった。生きてる? そんな疑問が浮かんだとき、周囲に漂う闇に気づいた。
揺らめく月の輝きが、呼びよせるように手招きしていた。耳の奥の囁き声が背中を押す。
夢、だったのか? 焦燥感がある。手繰り寄せなければ、失われる時間を留めることはできない。
現実感のある夢だった。
左眼の奥が疼いた。頭が脈打ち拍動する。時計塔で発動させた魔法の影響か。
低位魔法とはいえ、呪縛に逆らった反動なのか。手足に枷をされた感覚だ。
ベッドから降りて鉛のような足を引きずり、テーブルにあるコップを取った。滴を飛び散らせて水を注ぐ。零れた水がテーブルを濡らした。
喉を潤し、改めて鼓動を確かめる。落ち着いてきたようだった。
クエストを終了して帰宅後、すぐに眠りに落ちた。イズルはテーブルに置きっぱなしのパンを齧った。食堂に行くには遅い時間だ。味はない。頭にモヤがかかっている。夢の中をさ迷っている感覚だ。
暑い。もう一度水を飲み干した。千年彗星は間近に迫っている。数日間の気温の変動が激しい。
夜風を浴びたい衝動に駆られた。体の火照りを覚ませば、今度こそぐっすり眠れるはずだ。
寮からメインホールまでの暗がりは、明滅するイリュミネーションでかろうじて照らされていた。
結局参加できなかった。消灯時間を過ぎても、千年祭の熱気は残っていた。
メインホール前の噴水は涼むのに最適だ。興奮冷めやらない生徒が残っていてもおかしくなさそうだが、周囲に人影はなかった。
千年彗星の波動が、照明器具の不安定さを招いているからであろう。メインホールから離れるにつれ、深い暗闇に沈んでいきそうだ。その濃密な闇に足を踏み入れる生徒はいなかった。
夜風に委ねていると熱が引いていき、体の重みを忘れさせてくれそうだった。
噴水に手を浸した。ひんやりとした水がイズルの意識を呼び戻していく。水をすくう。月明りに踊る水滴は、この場にいた、あの日のローザを映した。あの日からだろうか、彼女は彼女の笑顔を失っていった。
お前はあの女を殺せるか?
昼間の言葉が蘇る。
手の甲が水面を打った。水滴が舞い、月明りを飲み込んだとき、祈りの声が聞こえた、夢の惨劇がよぎった。
月が誘ったのは噴水の向こう側。小さな影がよぎった。疑問を抱く前に走った。影は飛び上がり、闇に紛れた。
噴水を抜け、庭園が迫るにつれて木々の密度が増す。影は木陰から木陰へと身を隠す。揺れる木の葉の囁きが鼓動に語り掛け、さざめきとなった。
葉から零れた光の一部が、影を照らした。それがゴブリンだと認識した。追いながらも石を蹴り飛ばせば、命中させることはできる。
風の囁き声が大きくなる。ざわめきが芽吹いた。捕まえず、適度な距離を保つことを選択したのは、確信に近い予感があったからだ。
木々が途切れた。空間が広がった。月光が満ち、強い風が吹き抜けた。顔を背けながらも、ざわめきは頂点に達した。
囁き声は闇へと姿をくらませた。光の音さえ聞こえそうな静寂が訪れた。
低木の前にローザがいる。光のカーテンを纏った彼女は、闇夜の舞台に佇み、三日月の笑みを浮かべた。
ゴブリンが杖を回すと、低木から実が落ちた。実は立ち上がり、蠢いた。ゴブリンよりも一回り小さな鬼たちが、飛び跳ねながらローザの周囲を回る。
ゴブリンが木を実らせる。その額には、あの、時計塔の少年と同じ紋章があった。
ローザが、膝に乗ったゴブリンを掴んだ。
視線がぶつかった。昼間よりも青白くなった肌は、時計塔の少年を想起させた。
たった数時間でこんなにも変わるのか。彼女からは生気をまるで感じない。
彼女の頬を涙が伝った。
初めて、だった。
どんなときも笑っていたローザが泣いているのを、初めて、見た。
骨が砕けるような、鈍い音がした。ローザの手の中でゴブリンが破裂した。
「イズル。お別れ、だね」
視線を逸らすことなく、ローザは言う。自らの行いを受け入れたかのように、自然にゴブリンの力を吸い取る。
お前はあの女を殺せるか?
脳内に、反響した。
魔転、そんな言葉がよぎった。人が魔人と化す現象。人間性を失い、凶悪性を増し、人を襲うこともあるという。
心を奪われたのか?
泣く人を減らしたい、そんなことを言っていたローザが人を襲う?
彼女の肌から、じわりと暗い魔力が滲む。留めきれない力が空気を微かに震わせた。
内包された力が発現すれば、結界の警報装置が作動する。
どうする?
捕まえておかないと彼女は離れてしまう。だが、安全委員会との戦闘も避けなければならない。まずは学院外へ逃がすべきだ。
イズルが歩み寄ろうとすると、声が響いた。
「ローザ!」
振り返る。気づかなかった。そんなにも動揺していたのかとイズルは自分を責めた。
「……ファラ」
間を置いてローザが呟いた。
ファラが歩み寄ると、ローザは逃げるように後退した。呼び止めようとファラが声を発した。拒絶する声が響き渡る。
宙に魔力の渦が展開された。両手でも余るほどのものだ。木々を揺り動かすほどの風を伴って、ローザの頭上に魔力が凝縮される。
彼女に練りだせるレベルの力ではなかった。やはり異なる力が関与している。イズルが走り出す。どうやってローザを助ける? 方法はあるのか?
ローザの涙が宙を舞った。魔力が射出された。魔力は涙を気化させた。
軌道上に身を投げ出す。ファラが遠い。指先はまだ届かない。体を割り込ませた。彼女の頭を抱えて包み込み、衝撃に備えた。
背中から魔力の波が連続で押し寄せた。繰り返す衝撃が内臓を揺らした。魔力が体内を巡るごとに音が遠ざかり、視界がかすむ。腕の力を込めた。離せば彼女に危害が及ぶ。
胸元からイズルを呼ぶ声が聞こえた。
耳が痛いくらいだ。
それだけ大声を出せるなら、きっとケガはないのだろう。
「良かっ……た」
意識が、途切れた。