22 ローザの早退
少しずつ気温が下がっていた。
教室に入るとファラがイズルに声をかけた。
「おはよ。今日は寒いね」
「春なのに、なんでこんなに寒いんだ」
イズルは席に座って太ももをこする。
風邪をひく生徒が増えているそうで、制服に上着を羽織る姿が目立った。時期外れの光景だ。
「千年彗星の影響なんだって」
「これだけ寒いと、誰かに温めて欲しいものだな……」
席に座ろうとすると、ヒョータと目が合った。
「と。お前じゃないぞ、ヒョーたん!」
「違うよ。挨拶しようと思っただけ」
そそくさと、ずり落ちたメガネを直し、ヒョータはいつものように眠りに入った。
「ファラならいいけど」
「何言ってるの」
こつん、と頭を叩かれる。
「それより千年彗星だよ。メインホールでも注意喚起されてたでしょ。街でも魔物が増えてきてるって。郊外に出るのは禁止らしいよ」
「オレには関係ないけどな」
物騒になるくらいの方が、ギルドでの仕事が増えて稼げる。イズルは週末の活動に思いを巡らせた。
「それより委員会の仕事が増えることの方が問題だ」
学院の結界に与える影響も軽微なものではなくなってきた。再計算がなされ、脅威が当初の推測より上方修正された。
千年彗星の波動により結界が損傷を受けるとして、主塔の魔力供給量が増加された。現状では敵の侵入を阻止できているとの認識であることから、警戒レベルに変化はないが、見回りが強化される可能性もある。
「あれから二日たって、魔物が侵入したって報告もないけど、彗星の影響が出てくると、何が起きるか分からないからね」
「警戒レベルが上がって、仕事が増えるのは困るな」
委員会の活動でギルドの仕事が制限されると、生活に直結する。イズルは頭を抱えた。と、そこで、机に伏せるローザが見えた。いつも寝てるヒョータのようだ。
「どうした、ローザ。珍しく大人しいな。お前が静かだと雪が降るぞ、これ以上、オレを凍えさせるのはやめてくれ」
「あ……、ローザはね」
「私だって、体調不良なときくらいあるよ。今日はイズルっちの無駄話に付き合ってられないよ」
机に体重を預けたまま、ローザは青白い顔色で答えた。
「風邪を引かないのは、イズルっちくらいだよ。ほら、何とかは風邪を引かないって言うでしょ」
「バカは、だろ? いや、オレはタケリオじゃねえよ」
「おい、誰がバカだ」
前方のタケリオが、真っ赤になって振り返る。
「もういいってば」
「本当にしんどそうだな」
イズルはローザの席に移動する。上着を羽織っているものの、気温の低さと体調のせいで体が小刻みに震えていた。
「どれどれ」
熱があるならすぐに帰らせるべきだ。額をぶつける。途端にローザの顔が赤く染まる。
「ちょちょ、ちょっ、何やってんのさ」
「この方が熱分かるだろ」
後頭部を押さえて動けないように固定しようとするとローザが暴れ出した。
「き、きき君はちょっと女性との距離感を考えた方がいいと思うぞ」
「タケリオとの距離感は考えてる」
「なら、金輪際ボクに近寄るな!」
タケリオの声が飛ぶ。
「熱はなさそうだけどな」
「これじゃ、何もなくても熱上がるって」
腕をぶんぶん振り回す。解放されるとローザは机にかけていたカバンを乱暴につかんだ。
「やっぱ、帰る。悪いんだけど先生に言っといてくれる?」
うん、とファラが答える。
「やっぱり、この前冷たい風に当たったから?」
「どうだろ、分かんないや」
答えて廊下に向かうローザの足取りはやや覚束ない。
「送ってく」
イズルが隣に並んだ。階段で転倒すれば大けがにもつながる。
「いいよ」
「いや、フラフラだろ」
「寮に帰るだけじゃん。女子寮まで付いてこれないよ」
「オレには安全委員という特権があるのだ」
右腕の腕章を示した。安全の確保という名目なら、腕章を示せば女子寮にも入れるはずだ。
「いやいやいや。君を部屋に入れるのは身の危険を感じる」
「なら寮の前までだ。オレは本気で心配してるんだぞ」
「それなら、ファラにお願いする」
「もう授業が始まる。ファラは良い子ちゃんだから、サボれないだろ」
そういえば、と思い直す。姉妹で呪文詠唱をサボっていたことがあったか。
「ローザと二人でさぼってたこともあったか。そういえばあの日も寒かったな」
「うー」
ローザは唸って肩を落とした。押し問答を続けてもムダだと悟ったらしい。
「まあ、またサボってファラが先生に目を付けられても困るし。本当に寮の前までだからね」
授業が始まっていることもあって、寮の前に人影はない。
冷たい風が二人の間を駆け抜ける。
まただ。合格発表日の夜を思い出す。手を伸ばせば届く距離なのに、どこまでも遠く感じる。
教室にいると彼女は確かに存在した。二人になると、彼女の姿は散り散りになってしまう。
「花が散る時期か。あれだけ綺麗な花だったのに、なんだかもったいないね」
足元は花の絨毯で敷き詰められていた。
「持って帰るか? 拾うの手伝ってやるぞ」
「イズルっちは風情がないねー」
力なく吐き出して、ローザは熱っぽい息をついた。
「この辺りでいいよ」
「中まで行かなくていいか?」
再度訊ねる。これが最後だ。あまりしつこく聞いて体調にさしさわるのは避けたい。
うん、と答えてローザは寮内へ向かおうとした。足を止める。君は……ローザが呟く。風で消し飛んでしまいそうな声だった。
「下心があるんだかないんだか分かんないね」
「あるけど」
「てい」
ずびし! 手刀がイズルの額を打つ。
「あっても、その努力は無駄になっちゃうよ」
強い風が吹いた。花びらが舞い、二人の視線を遮った。
イズルは言葉の意図を把握し損ねた。どういう意味だ、疑問の言葉を飲み込む。
詮索は控えておく。彼女の足元はあまりにも頼りなかった。
「早く帰って寝ろ」
「これからは私じゃなく、ファラに優しくしてあげて。あ、手を出しちゃだめだからね」
「オレは教室に戻るぞ」
踵を返して帰宅を促す。
その背中にローザの言葉がそっと舞い落ちた。
「イズル、ありがと」
小さな体は寮へと姿を消した。