第二話
先程まで、確かに傍らにあったはずの大樹はどこにも見当たらなくなっていた。
『…チッ!かなり飛ばされたなーー…降りるぞ』
辺りは低い山に囲まれた谷間に変わっていた。
その谷間の中心には川が流れている。近づくにつれて例の蛍色の光が見えると共に、ここにもあのでかい大樹の根がくまなく広がっていた。
私は視界の端に映った色にふと視界を転じ、左前方に広がるものを見て息をのんだ。
「月島―――…あれは何?」
それは元いた世界では見たことも無いほどの、とてつもなく広大な“神殿”だった。
赤茶色の石で出来た、どことなくインドの寺院を思わせる見事な装飾が施された幾多の建築群――――…私はたまに外国の有名な建築物をドキュメントした番組を見ることもあるが、あんな途方もなくでかい建築群など見たことがなかった。
『…いいか楠森、あそこには絶対に近づくな。人のいる場所に何とか留まるんだ』
月島のその不吉な警告に私がさらに質問しようとした、その時ー―――眼下に荒れ放題の低いビル群が見えてきた。
そこには人気など感じられなかった。しかし離れた場所にいくつか大きな蛍色の光が見え、多分そこには何かの集落があるのかもしれない。
すでに地上の光景さえ視認出来るほどの距離まで、私達は近づいていた。それを何気なく眺めていた私の眼が、地上の様子が子細になるにつれ驚愕によって見開かれた。
「何なの、あれ―――…し…死体…!?」
ビルとビルの間に点在する“それ”は、一見マネキンだと見間違ってもおかしくないほどに現実味を欠いている。
なぜならそれは――――道の至る所に、業者が事故でも起こして道路にまき散らしでもしたかのように“あちこち”点在していて――…
「月島…あれ本物?ほっ…本当に死んでるの…!?」
『――ああ。…この世界で死んだ人間は“屍鬼”と化す、いわばモンスターだ。…お前も、殺されないように気を付けろ』
月島の加えたそのおぞましい説明に動揺し、私はさっきまで死にたいと思っていたことも忘れ目の前の異形に迫った。
「ねぇ…っ何、その他人事みたいなアドバイス…あんた、私を助けてくれたんでしょ!?ならっ私を守って…」
月島は深くため息を吐くと、投げやりにさえ聞こえる口調で答えた。
『俺はーー…他に助けたい人間がいる。お前を下ろしたら、すぐにそっちへ向かう』
…こいつ―――嫌いだ…っ!!!
その瞬間強くそう思い、月島から目を背けた私は強く歯噛みした。
自分が生きるか死ぬかという時に、他の人間を優先された―――胸に焼けつくような屈辱感が沸いて、私はせめてもの抵抗にとそれ以降月島を無視し、一言も話さなかった。
私達はビルの谷間を降下した。
辺りを見渡すとビルは窓ガラスが破壊されたものや、何かの冗談のように無傷なままのものまで状態は様々だった。蛍の光がまるで中で生活している人でもいるかのように、ビルの内部を所々照らしている。
(あの大樹の根が――…ビルの中にも入り込んでるんだ)
ここまで降下してくると、嫌でも地上の惨状が目に入ってきた。
地上は、まさしく地獄の様相を呈していた。
道路を走っていたであろう車があちこちに衝突したり横転していて、無傷な車はほとんど無かった。その車中で死んだ人、道路に投げ出された人達が何人も血塗れになって倒れている。
(まるで…大地震でも起こったみたい…)
私が地上からこの世界に落下している間に、一体何が起こったんだろう……想像したくもなかった。
月島は地上につく寸前に黒い羽根を大きく一回羽撃かせると、フワリと地上に着地し私はすぐに月島から距離を取る。そのせいで異形化した月島の全体像が見えた。
(…何、この姿―――…)
声を聴かなければ、それが月島だとは到底思えなかっただろう。
3メートル近くある体格に、曲がりくねった金属質の角。かろうじて人の顔と認識出来る、灰色がかった黒紫の兜―――その中心に、まるで鮮血のような深紅の瞳が私を見つめていた。
少しの隙無く全体を覆う灰黒紫の装甲は、一片の曇りなく見事に輝いてとても頑丈そうだった。そして翼だと思っていたのは鳥の羽で出来たそれではなく、“機械”で構成されたどこか人工的な翼だった。
まじまじとそれらを眺める私と月島の間に、重い沈黙が落ちる。
『―――…じゃあな、気を付けろよ』
月島は不意にそう告げると私に背を向けた。
「まっ、待って!!」
私は思わず大声で呼び止めてしまった。
行かないでよ―――…こんな所で、化け物だらけのこんな場所で、女を一人で置いてくなんて――…。“私も連れてって”と言いたかった。置いてかないで、と―――ー…でもこいつは。
私は縋り付きそうになるのを精一杯のプライドで抑え込みながら、迷いを振り切るように顔を上げた。
「じゃあっ、その助けたい人が助かればいいなっ!……さようならっ!!」
腹立ち紛れにそう言い捨てると、とにかくどこか安全な場所を見つけようと月島とは反対方向へ向かって走り出した。
他人なんてーーー家族も含めてしょせん当てに出来ない。今までの人生の中、私が嫌というほど味わったそれが“現実”だったじゃないか。
「…ここ、どこなんだよ――…」
どこまでも続くビル街に私は追い詰められた獣のような気分になってきた。どこを見ても死体死体死体―――…生きてる人間なんてどこにも見当たらない。空を見上げると、かなたの上空から薄黄緑色の光が漏れていた。光はあまりに遠くて弱く、地上を照らすまでには至っていない。
私は近くで光っている根に近づいてよく見てみた。光っていたのは根から生えた“結晶”の部分だった。
私は恐る恐る、蛍によく似た光を放つその結晶に触れてみた。それは外見に似合わず一切の熱を持っていない。思い切って力を入れると、結晶はポキッと簡単に折れた。
(――…折れても光を失っていない。これ、懐中電灯の代わりになるな…)
私は手に持った結晶をコートのポケットに入れ、もう一本を根から折って手に持った。
『ぅあぁ~~~…あっ、あぁあ…っ』
「―――ッ!?」
苦しんでいる様な声が聞こえ、私はギョッとなって振り向いた。結晶を声が聞こえた方向にかざしてみると、その光の先に一人の人間が仰向けに倒れながらもがいているのが見えた。
「ッ!!…大丈夫ですかっ!?」
私はやっと“生きた人間”に会えたと思い、もがき続けているその人に近づきかけ――――その途中で足を止めた。
それは若い女性だった。そう、女性だった――――…“血塗れ”の。
(いっ…生きてる?だから苦し―…)
その可能性に気付き、私はさらに2、3歩近づいた、その時。
女性の体が、蛍色の光を放ちながら一気に“膨張”した。
中に仕込まれていた爆弾が爆発したかのように、ボコボコと音を立てながら急激に膨らみ続け、それが最高潮に達した瞬間―――ーその動きが急に“止まった”。
私はあまりの出来事に逃げる事も忘れたまま、目を見開いて一部始終を凝視していた。止まったままの肉塊に散っていた蛍色の光がプクリと泡となって膨れ上がり、頂上へと向かって次々と集まりだした。
それが集積し、幾つもの泡が密集した状態になったその時。
プ――…クプクブクブグォゴボォア゛ア゛ッッッ!!!
泡は急激に形を変え、激しくうねりながら“何か”の形を取り始めた。
「…な゛っ!!―ー…」
その様子に目を奪われながら、私は無意識の内に後ずさった。光が強くなっていくのと反対に、元の肉の塊はミイラ化しながら萎びて小さくなっていく。
『グ―――…ゴゥゴォッ!!グォオ…』
人間からかけ離れた頭部や筋肉――――鋭い爪の生えた両手足――――そして太い尻尾―――…。
光に包まれた異形は叫び声を上げながら、まるで羽化をする昆虫のように自らの形を取り戻そうとしていた。やがて泡が無くなるにつれ光は薄れていき、その内側からぬめった赤の鱗をまとった肌が見えた。
今や異形は光の泡の塊ではなくなっていた―――その中から生まれたものは、人間とは似ても似つかないような―――ー…“化け物”だった。
『うぐぁあ…っあ゛…ぐぉあ゛あ゛っっ!!』
「――ッ!!」
『あ゛ぁあ~~~…あぐぁっあ゛あ゛っっ!!』
『ごぶぉ…ぐぉあ゛~~~~…っ!!』
『ぉああああ~~あ゛っ…がぅあっっ!!!』
周囲から次々と湧き起こる呻き声に、私はやっと今がどんなに危険な状態か悟って戦慄した。周囲に散らばった死体が最前の女性と同じように暴れ出し、蛍色の光の泡を生み出していた。
「う…そでしょ…っ!?これ――…全…」
『グォオ゛ゥ―…』
「…はっ!?」
振り返った私と、一瞬その存在を忘れていた赤色の化け物の視線がかち合った。化け物は見開いた蛍色の眼で私を見据えると、鋭い牙の生え揃った口を裂けるように開けて舌なめずりをした。
「うぁ…っ…わあああ――――っっっ!!!」
私は化け物に背を向けると全速力で駆け出した。
左側にビルが見え、その破砕したガラスの自動ドアめがけ私は必死に走った。背後では何かが土を蹴る音が近づき、化け物が私を追ってくるのが分かった。
(もう少しで――…中に…!)
あと少しで、ビルの中へ逃げ込めると思った瞬間。
『グォオアッッッ!!!』
とっさに振り向くと、すぐ背後へと迫った化け物が腕を振り上げ私に襲い掛かってくるのが見えた。
「や゛っ…やぁあああっっっ!!!」
私はその途端何かにけつまづき、後ろ向きに転び倒れ込んでしまった。
ガァアンンッッッ!!!
倒れ込んだ私が見上げると、化け物はガラス戸のフレームに体を引っ掛けていて、私がつまづいたのもそれだった。私は必死で立ち上がると、すぐさまオフィスビルらしいエントランスを奥へと駆け出した。
エントランスはだだっ広いだけで、どこにも隠れる場所は無い。倒れたはずみに蛍光灯代わりにしていた光る結晶も無くしてしまい、私はほの暗い空間を走った。突き当りにはエレベーターが二つ並んでいた。だけどもちろんそれは作動などしてなくて、私は突き当りの左右に広がる廊下を見回した。
『グゴゥッッ!!』
化け物がエントランスへ入ってきたのが分かり、私は右側の廊下へ走った。壁の右側にあるトイレは無視して奥へ走ると、廊下は突き当りで左へ折れ、その反対側に上階へ続く階段があった。
「ッ!やった…っ」
私は救われた気分でその階段を急いで登り始めた。
『アガゥア゛ゥワ~~~…!!』
「ー―…ッ!!?」
上り掛けた階段の途中で私は足を止めた。今聞こえた声が、人間のものとは思えないことを認めたくなかった。
「や、止めてよっ…」
目の前に広がる階段の踊り場にいたものが――――ゆっくりとこちらへやって来た。
背中を老人の様に丸めたままの“それ”は、全身が醜いこぶ状のものに覆われていた。背中に金属の背びれ―――異様に大きな両腕に対して短い脚。
私は悪夢が現実と化したこの状況に思考が停止し、全身がガタガタと震え出していることに遅れて気付いた。
私は一階へと戻ろうとした。
『グォルルル…!!』
その私を、追い掛けてきた赤い化け物が階下から睨み付けていた。
(だ…駄目だ、逃げられない…)
私は震えたまま、地面に根が張った様にそこから一歩も動くことが出来なかった。
私―――こいつらにどうされるの…!?食い千切られてく、食われるの!?嫌だ―――…嫌だ何でっ!?…何でさっきから一瞬で死なせてくんないんだよっ!!!
「―――ッ!!……」
声が出ない―――声帯が石にでもなった様に引きつり、めちゃくちゃに叫び出したいのにそれすら出来ない。挟み込むようにジリジリと近付いて来る2体の化け物に追い詰められ、私は力無くよろよろと壁際に後ずさった。
(…私、こんな…っ化け物に―――…あいつらに復讐も出来ないまま、こんなクソみたいな死に…方…っ)
背中がガツッ!と壁に当たり、これ以上逃げる場所は私に残されていなかった。
化け物達が、私に向かい威嚇するように裂けるほどの大口を開けた。粘液を引きながらその口に鋭い牙がびっしりと生え揃っているのを、私は絶望しながら見つめた。
“我を開放せよ”
「え…っ!?」
その時、辺りに響くような声が聞こえた。
それが聞こえたはずの場所を、私は信じられない思い出見下ろした。肩に斜め掛けした、ナイロン製の濃紺のボディバック――――無機質で硬質な声は、確かにそのバックの“中”から響いてきた。
「…な、に―…!?」
“お前の創造の闇を、我に捧げよ―――!!!”
『ァアッグォア゛ア゛アッッッ!!!』
視界の端に、踊り場にいた化け物がこらえきれない様に襲い掛かってきたのが見えたと同時に、私はバックのジッパーを引き下ろした。
――――カッッッ!!!
瞬間、辺りを白く染めるほどの強烈な青白い光が私の眼を焼いた。
「ぅあああっっ!!」
『グォアア゛ッッ!!!』
『アギィイ゛ッッ!!!』
化け物が突然の光に悲鳴を上げ、光からその身を守った。
光は輝いたと思った次の瞬間嘘のように消え失せてしまい、辺りは何事も無かったように元の状態へと戻ってしまった。
『…グルァアアッ!!』
『……アゥアォオ~…ッ!!』
化け物達が我に返ってダメージから回復すると、再び私を目標に定めた。
「なっ…何か起こるんじゃないのおっ!?」
私は拍子抜けした気分で思わず叫んだ。化け物達が攻撃を仕掛けようとした、その時。
…ビキ…ッビシッビギビィ゛イ゛…ッッ!!!
へばり付いていた背後の壁から“何か”が壁の中を進んでいくような異音が聞こえ、徐々にその音は大きくなっていく。
私は束の間化け物達の存在も忘れ、後ろを振り返った。
「…ッ!!――…っ…」
私は声を上げる事すら出来なかった。
私の頭の上、ちょうど1メートルぐらい上の壁を中心にして――――赤黒い“木の根”が、メキメキと放射状に壁を押しのけながら広がり続けていた。
数メートル四方に広がった次の瞬間、中心部から数本の“芽”がうねりながら生え出した。
『グォオ…グルォオアッッッ!!!』
下の階から追いかけてきた赤い化け物が叫びながら駆け出し、私めがけ両腕を伸ばしてきた。私はそこから目を背ける事も出来ず目を見開いたまま、自身の死を覚悟した―――ーその瞬間。
ビュォオ゛ッッッ!!!
『グゴァア゛ア゛ア゛―――ーッッッ!!!』
「ッ!?…あ―…?」
断末魔の叫びをあげたのは、私ではなかった。
私の背後から伸びた複数のツタが、襲い掛かってきた化け物を蛇が獲物に絡みついて締め上げるように、グルグル巻きにしていた。
『アヴォア゛ア゛…ッッッ!!!』
「――ッ!!」
反対から聞こえた叫びに振り返ると、上から私を襲って来たせむしの化け物が赤黒いツタによって同じ様にグルグル巻きにされていた。
私は激しく鳴り響く自身の鼓動を聞きながら――――妙な“既視感”を感じていた。
『グルォアッグォア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ッッッ!!!』
下の階の赤い化け物が体を激しくばたつかせ、絡み付いているツタを取ろうとしていた。
化け物に絡み付いているその赤黒いツタは、全身細かな長い“棘”に覆われていた。棘は先端から粘液を出し、ツタの腹部には一直線に長い切れ目が入っていた。
ビキキ…ッビキィッッッ!!!
す巻き状態になった化け物の背後から、木が避ける様な音を響かせて壁から伸びたツタの“先端”が現れた。
私はその姿に目を見開いた。
「…っ…う、そ―…」
細かな赤黒い棘は、丸い頭部までびっしりと覆い――――そしてその中心にあるラッパ状に開いた大きな口の中には、粘液にまみれた鋭い銀色ののこぎり歯が360度びっしりと中心に向かって生え揃っている。
私は知っていた――――その姿を、確かに知っていた。
(だってあれは――…)
私の視線は吸い寄せられるように、開いたままのバックからのぞく深緑色のスケッチブックに向かっていた。
私はかつてそれを、周囲の雑音など全く聞こえないほど集中して描いた。
赤黒い蛇のような伸縮自在なツタ―――…何ものをも逃しはしない、サメのような硬い金属の牙―――私は自分をいじめる奴等がそれに捉えられ、締め上げられ、そして絶叫しながら食われていく様を想像し、暗い愉悦を感じながら――――確かにその姿を描き続けた。
私はそれに名付けたはずの名前を、半ば無意識に呟いた。
「―――…“人喰い草”…」