道化の騎士は、令嬢のため馬上から落ちる
からりと晴れ渡った秋空の下、快活な声が響く。
「ドゥラウグ子爵令嬢殿、あなたに我が槍を捧げましょう!」
高々と槍を掲げるは、金属鎧を纏い馬にまたがった一人の若き騎士。
途端、広い草原に設けられた馬上槍試合の会場に集う紳士淑女が、わっと声を上げた。
今日は秋の実りに感謝を捧げる収穫祭。
王侯貴族に神職者も集まり祭事を行う傍ら、集まった万を越える数の騎士や紳士淑女をもてなすために酒や料理が振舞われ、様々な催しものも行われている。
その目玉の一つが、今行われている馬上槍試合。
鎧を纏い、ランスと呼ばれる馬上槍と盾を手にした騎士達が一騎打ちを行うものだ。
一対一で真正面からぶつかり合うこの競技は、騎士として名誉ある戦いであり、祭りの華でもある。
何しろ王が自ら出場し、見事な盾捌きで騎士団長の槍を凌ぎに凌いで場を盛り上げたことすらあるほどだ。
そして注目を集める場であるからこそ、こうして己の槍を淑女や貴婦人に捧げて思慕や敬愛を表する騎士も少なくない。
当然、更なる盛り上がりを生む行為であるはずだ。本来ならば。
だがこの時は、少々周囲の反応が違った。
「今年の相手はドゥラウグ嬢か~」
「これで六人目か? そろそろ汚名を返上しろよ、『勝ちなし』のポール!」
聞こえてくるのは、酔っぱらった騎士が発するこんな野次。
もちろん普通に歓声を上げて盛り上がっている観客もいるのだが、他の騎士に比べると明らかに少ないが、仕方ないと言えばそうなのだろう。
『勝ちなし』のポール。
馬上槍試合において五度槍を捧げ、五度とも負けを喫した彼のことを、心無い者はそう呼ぶ。
何しろ、五度が五度とも違う令嬢、というのがよろしくない。
軽薄な尻軽男という印象になるのはもちろんのことだが、それ以上によろしくないことがある。
「見ろよ、ドゥラウグ嬢。涙ぐんじまってるぞ」
「仕方ないさ、なんせ『勝ちなし』に捧げられちまったんだから」
視線が、観戦している一人の令嬢へと向けられる。
アニエス・ドゥラウグ。
長い艶やかな黒髪をした彼女は、普段ならば穏やかな微笑みを浮かべている顔をくしゃりと歪めていた。
口元こそ白扇で隠しているものの、その目に光るものが浮かんでいるのは明らか。
それを見ていた周囲の人間も同情の目を向けるのだが、これには理由がある。
王も貴族も騎士としての教育をある程度以上受けているこの国では武勇が貴ばれ、そんな彼らの伴侶に求められるものの一つに、武運、あるいは勝ち運とでも言うべきものがあった。
勝利の女神、などという言葉もあるように、男性を勝利へと導く運は女性がもたらすもの、という迷信じみたものはこの国でも見られる。
であれば、槍を捧げた騎士に勝利をもたらすことが出来ない淑女は、勝ち運がないとみなされるということでもあった。
これは決して馬鹿に出来たものではなく、そんな女性と婚姻など出来ない、と婚約が破棄されたケースは枚挙にいとまがない。
実際、ポールが槍を捧げた五人の令嬢達は全員が全員、整いかけていた婚約が破談になっている。
そしてドゥラウグ子爵令嬢もお年頃、婚約話が進んでいてもおかしくはない。
というか、先ほどの反応を見るに実際進んでいるのだろう。
だというのに、軽薄で軟派な『勝ちなし』が槍を捧げた。
その上。
「うわあああ!?」
猛烈な勢いで騎馬と騎馬が交錯した次の瞬間、胸に突きを入れられたポールが悲鳴を上げつつ鞍から転がり落ちる。
『勝ちなし』は、これで六度目の敗北を喫した。
そして、『勝ち運なし』のレッテルを、六人目の淑女にもたらす羽目になったのだった。
勝利した騎士を称える歓声と、ポールへの嘲笑が響く中、地面に転がっていたポールが立ち上がりドゥラウグ子爵令嬢の元へ向かう。
兜のバイザーを上げたポールは、申し訳なさでいっぱいの表情で彼女へと頭を下げた。
年若い顔立ち、頬にかかるこげ茶色の髪。この国で多く見られる外見である。顔立ちは整っている方だが。
「あたなには申し訳ないことをしました、ドゥラウグ子爵令嬢殿……」
彼女が被ってしまった不名誉は、そんな謝罪一つで済むようなものではない。
さあどんな罵倒が発せられるのか、はたまた恨み言か飛び出るか。
周囲の者達は下世話な好奇心とともに成り行きを見守っていたのだが。
ドゥラウグ子爵令嬢が見せたのは、小さく首を横に振る仕草だった。
「いいえ、いいえ……どうか顔をお上げください」
思わぬ言葉に、ポールが恐る恐る顔を上げれば。
「そして、あなたさえよろしければ。……来年、もう一度槍を捧げてくださいませんか?」
ドゥラウグ子爵令嬢からかけられたのは、全く予想していなかった言葉と。
涙ぐみながらの微笑みだった。
「はっ、はいっ! このポール・クラウンキャスト、喜んで槍を捧げましょう!」
反射的に背筋を伸ばし、若干上ずった声でポールは答える。
……じわじわ、頬が熱を持ち始めてきた。
パキン、と何かが割れたような感覚。
クラウンキャスト。『道化の騎士』と呼ばれる子爵家。
その一員である彼の、道化の仮面にヒビが入った瞬間だった。
多少奇妙ではあったが、収穫祭の馬上槍試合ではよくある光景。
周囲で見ていた人間にはそんな程度の出来事ではあったのだが、関係者にとってはそうではなかった。
「アニエス様、あの時は大変でしたわね」
とある貴族令嬢達が集まるお茶会にて。
あの時渦中の人となったドゥラウグ子爵令嬢アニエスは、やはりここでも話題の中心であった。
向けられるのは、心の底から心配している視線もあれば下世話な好奇心をひた隠しにしたものまで多種多様。
それらの視線を、アニエスはいつもの……いや、いつもよりも毅然とした雰囲気のある微笑みで受け止めていた。
「あの時、というよりはあの後が大変でした。グラウズ伯爵家から申し出があって、纏まりかけていた婚約が白紙となりましたし」
「まあ、やはりあの噂は本当でしたのね!」
話を聞いていた令嬢が思わず声を上げ。
……微妙な表情になりながら、しばし言葉を探す。
「……あの、グラウズ伯爵家ということは、お相手はダヴィド様でして……?」
「そうですわね。正確には、元、ですけれども」
穏やかな声とともにアニエスが頷けば、周囲から『あ~……』という嘆息のような声が漏れる。
この場に集まっているのはいずれも子爵家の、相応に淑女教育を受けた令嬢達。
そんな彼女達が嘆息を抑えられない相手と言えばどんな人物か伺えようというものだ。
「であればあの出来事は、結果として不幸中の幸いでしたのね」
随分な言いようだが、その場にいる誰もが否定しない。
いや、ただ一人、アニエスだけが首を横に振ってみせた。
「わたくしにとっては、まさしく幸いでございました」
迷いなく言い切るその姿に、周囲の令嬢達が息を呑む。
集まる視線を受けながら、アニエスが浮かべたのは柔らかな微笑み。
「皆様は、ポール・クラウンキャスト様から槍を捧げられた方々に、その後お会いになったことはありまして?」
問われて、令嬢達は一様に首を横に振る。
そうだろうと予想していたアニエスは、小さく頷いて言葉を続けた。
「わたくしは、ございます。偶然、一人の方と。それから、無理にお願いして更にお二人ほど。
皆様、泣いておられました」
言われたのは、当たり前とも言えること。
しかし、それはすぐに裏切られる。
「泣いて、ポール様に感謝しておられました。あれは、嬉し泣きでございました」
淡々と。
それでいて、慈しむように言うアニエス。
居合わせた令嬢達は、まさかの言葉に絶句するしかなかった。
一方その頃。
「どういうことだ親父! なんでドゥラウグとの婚約を白紙になんて!」
噂の人物、ダヴィド・フォン・グラウズは父親であり当主でもあるグラウズ伯爵の執務室で荒れていた。
伯爵家の跡取りとして育てられた彼は、学問や武芸においては次期当主として十分なものを身につけてはいたものの、堪え性というものに欠けていた。
あるいは、それこそ当主として最も重要なものであるにも関わらず。
だから、現当主であるグラウズ伯爵がダヴィドに向ける顔には、苦いものがあった。
「当たり前のことだろうが。『勝ち運がない』とケチのついた嫁なぞ、我がグラウズ伯爵家に迎えることなど出来ん」
子供でもわかりそうなことが、何故わからないのか。
伯爵の顔には、そう書いてあった。
「け、けど、そうだほら、子爵家との事業提携の話だってあったじゃないか!」
「それこそ一番に解消することだろうが。同じような提携は他の家とでも出来るというのに、なんでわざわざ失敗するとわかりきっている事業提携を推し進めねばならんのだ」
「なっ、失敗するかどうかなんて、まだわからないだろ!?」
ダヴィドの感情的な、反論とも言えない反論を受けて伯爵は大きくため息を吐く。
自らの後継ぎが、ここまで頑迷だと思わなかったのだ。
以前、教育の状況を確認するために問答をした際には、かなりましな受け答えが出来ていたはずなのだが。
「わかりきっているだろうが。ケチのついた令嬢を抱える家と、それでも嫁にと迎えるような家が興した事業に、手を貸すような奴がいると思うか?
いるとすればよほどの阿呆か、これ幸いと嵌めにかかる詐欺師のどちらかだ」
伯爵とて本気で『勝ち運』などというものを信じているわけではない。
だが、それを信じている者はいるし、その迷信を利用している者だっている。
むしろ、やり手の貴族連中や商人どもはそういった人間ばかりだ。
であれば、わざわざ隙を見せるなど愚の骨頂もいいところである。
懇々と説明されたダヴィドは、反論が出来ない。
元々、彼の中にあったのは論理的なものではなかったのだから。
「くそっ、こんなことであの女を諦めるなんて……やっとあの身体を好きに出来るところだったのに!」
ダヴィドの口を衝いて出たのは、なんとも下卑た欲望だった。
これには伯爵も、呆れたようなため息をつくしかない。
「そんなことで家の足を引っ張るつもりか……。街で娼婦を買えばいいだろうが」
……まあ、伯爵とてこの国の男性貴族でしかない。
貴族御用達である高級娼婦達の中には豊満な肉体を持つ女が何人もいることだって知っている。
だが、そんな伯爵へとダヴィドは指を振って見せた。得意げな顔で。
「わかってないなぁ、親父は。商売女を好き勝手出来るなんて、当たり前すぎてつまらねぇ。
あの、地味でお堅い、貴族令嬢のお手本ですって顔の下に隠しているいやらしい身体を弄ぶのが最高なんだろうがよ!」
この発言には、実の父である伯爵ですら眉を顰めざるを得なかった。
言われてみれば、ドゥラウグ子爵令嬢アニエスのスタイルは肉感的なものであったような気がしないでもない。
息子と違って伯爵は凝視したわけでもないので、はっきりと覚えてはいないが。
どちらにせよ、一考に値するかと言われれば、答えは明白である。
「馬鹿なことを言っとらんで、次の相手のことを考えろ。
ああ、その前に娼館でその頭と腰を冷やしてこい」
そう言いながら、伯爵は実の息子に対して、手を振って追い払うような仕草を見せた。
そのことに、ダヴィドは少なからずショックを受ける。
そんな扱いをされても仕方ないだけの言動をした自覚などまるでなく。
「な、なんでだよ親父、話はまだ終わってないっ、お、おい、離せ、離せっ!」
騒ぎ立てるダヴィドの両脇を、護衛として控えていた騎士が二人、がっちりと抑え込む。
貴族令息の中では突出した体格と腕力を誇るダヴィドだが、伯爵の護衛を任されるような腕利きの大人にはまるで敵わない。
抵抗空しくあっさりと引きずり出され、そのまま自室へと叩き込まれてしまった。
「くそっ、なんでだよ、俺は伯爵家の跡取りなんだろ!?
だったら女の一人くらい好きにしていいじゃねぇか!」
全く反省の色がない発言に、扉の外で見張りをしていた騎士が思わずため息を零す。
無駄に鋭いダヴィドの耳はその音を拾い、口を閉じた。
自室と言えども大声で喚けば扉の外には筒抜けであり、その内容はすぐさま父親である伯爵に報告されるはず。
そのことが理解出来る程度に、ダヴィドの頭は小賢しかった。
「くそっ、このままじゃおさまりがつかねぇ……どうしたら……」
ただ、諦めは悪かった。潔さなど欠片もなかった。
彼の頭の中には、どうすればアニエスを好きに出来るか、それしかなかった。
だから、無駄に小賢しい頭は、一つの答えを弾き出した。
「……だったら、来年の収穫祭で俺の槍を捧げればいいんじゃねぇか?」
至ったアイディアに、ダヴィドは……顔を、しかめた。
「くっそ、槍を捧げるってのが気に食わねぇ!」
思わず大声を出して。
扉の向こうにいる騎士に聞かれた気配を察して、慌てて口をつぐむ。
今の発言だけでは、ダヴィドが何を企んだかはわからないはず。
そう自分に言い聞かせ、何とか落ち着きを取り戻そうとする。
しかし、落ち着かない。落ち着けるはずがない。
自身が至った名案に、彼の興奮はいやますばかりである。
「俺が槍を捧げてあの道化をぶちのめせば、あの女に『勝ち運』が戻ったことになる。
そうすりゃ余計な雑音もなくなって事業提携だって元通りだし、俺はあいつを好き勝手に出来る権利を得る。最高じゃねぇか」
湧き上がる興奮を抑えながら、ダヴィドは小声で呟く。
それが、彼以外の人間から見れば最低最悪な発想であることに気付くこともなく。
「だったら、来年の収穫祭に備えて鍛えねぇとなぁ……」
聞く者がいれば背筋を震わせるようなじっとりとした声音で、ダヴィドは一人決意した。
そして、もう一人の当事者であるポールは。
「お時間をいただいて申し訳ございません、父上」
父であるクラウンキャスト子爵の執務室へと赴いていた。
迎える子爵は、何やら面白がる顔をしている。
「いや、珍しくお前が請うたのだ、構わんよ。で、話とはなんだ? 先の馬上槍試合のことか?」
鷹揚な態度を見せる子爵は、ポールに比べて線が太く、偉丈夫と言っていい背格好。
道化ではあれども、騎士を掲げる家の当主としてふさわしい外見であることは間違いない。
その内面まで同じとは限らないのだが。
ともあれ、促されたポールは、口を開いた。
「はい、馬上槍試合に絡むことではあります。
……その。……今までも道化としてあることが出来ていたかはわからないのですが。……道化であることを捨ててしまいたく、ご相談に上がりました」
ポールの発言を聞いて、子爵は顰めっ面を作った。
自然となったのではなく、作った。
そのことに、ポールは気付いていないが。
「ふむ。話には聞いているが、ドゥラウグ子爵令嬢に対して本気になった、ということか?」
問われて、ポールは沈黙する。
即答できるほど、彼は色恋沙汰に慣れていない。むしろまっさらなくらいである。
あれだけ、軟派な振る舞いをしていながら。
しばしの沈黙の後、ポールは首肯してみせた。
「……はい。あの方は……私を見てくださっていました。『勝ちなしの道化』ではなく、私を。
だからあの方に対して、誠実でありたく思いました。そして、勝利を捧げたい、と」
まっすぐなポールの視線を受けて、子爵は相好を崩しそうになった。
実の息子が、男になろうとしている。
それは親として実に喜ばしく。
しかし、本音を晒すわけにもいかない。今は、まだ。
「なるほど、つまり勝利を求めたい。そのためには道化としての振る舞いを捨てねばならず、いわば家訓を捨てねばならぬと悩んでのことだな?」
「おっしゃる通りです」
真剣な顔で頷くポールを見て。
子爵は、笑った。
「ち、父上?」
「ポール、お前は若いくせに頭が固すぎる。いや、真面目過ぎると言うべきなのかもしれんが」
笑いながら、子爵は息子を見る。
……大きくなった。男の顔をするようになった。
それが、なんとも嬉しい。
「お前は、道化のなんたるかをわかっていない。
道化とは、笑われる者ではない。笑わせる者だ」
「笑わせる者、ですか……?」
字面だけならば対して違いのない言葉。
しかし、きちんと受け止めれば、まるで意味の違う言葉。
そのことに、ポールが考えが至った。
気づいたらしいポールの様子に、子爵は笑みを深めながら言葉を続ける。
「ああ、笑わせる者、だ。ポール、お前が笑わせたかった令嬢達は、笑っていたか?」
問われて。
ポールは、即座に頷いていた。
「はい。……泣き笑いではありましたが」
「ま、それでも十分だろうさ」
律儀な返答に、子爵はますます笑ってしまう。
ポールが槍を捧げた令嬢達は、いずれも望まぬ婚約を結ばされかけていた。
多くは、思いを交わしていた相手と引き裂かれる形で。
そのことを知ったポールは、横槍を入れた。
横恋慕ゆえ、ではない。
彼が槍を捧げた令嬢達は、挨拶を交わした程度の面識しかなかった。
だがそれでも、望まぬ婚姻を押し付けられ、心を踏みにじられるのを看過することは出来なかった。
だから彼は槍を捧げ、負けた。道化を演じた。
彼女らの悪縁を断ち切るために。
目論見は当たり、見事令嬢達の婚約は白紙となっていった。
ポールが『勝ちなし』と呼ばれることと引き換えに。
そして令嬢達は、あるいは解放された安堵と喜びで。
またあるいは、ポールの真意に気が付き、申し訳なさに押しつぶされそうになりながらも、彼に報いる方法がそれしかなかったが故に。
涙を流しながら笑っていた、と人づてに聞いている。
泣きながらではあれども、確かに彼女達は笑ったのだ。
それでよかった。
それだけで報われた。
そんなポールの心情を、子爵も汲み取っていた。
「お前は、立派な『道化の騎士』だ。他でもない、クラウンキャスト家当主である俺が認める。
だから胸を張れ。そして、道化を貫いてみせろ」
静かで、力強い言葉。
それを受けて、ポールの背筋が伸びる。
認めてもらえた。そのことは嬉しい。
しかし同時に、彼の生真面目さがそれを素直に受け入れることが出来ないでいる。
「お言葉はありがたいのですが……しかしその、これは私情からのものですし」
もうあれで報われたと、思っていた。
けれどもドゥラウグ子爵令嬢と向き合って、ポールの今までを知っていると、涙と微笑みで告げられたように思えた。
ならば、心を掴まれても致し方ないというものだろう。
そんなポールを見て、父である子爵はおどけた調子で笑う。
「それの何が悪い。道化の紡ぐ物語に、色恋沙汰がどれだけあると思っている」
「そ、それは……そう、ですけども」
道化、ハーレクインが語る物語。
それは時に男女の秘められたあれこれを語ることもある。
であれば、その演者となって道化るのも決してないものではない。
「ま、色に溺れるのはいただけないがな。
だからポール。色を艶に、華に変えて道化てみせろ。それが出来てこそのクラウンキャストだ」
その言葉が、胸に染みる。
芽生えた感情を殺さず、しかし振り回されることなく、己が糧にして成長しろということだろう。
真面目なポールは、そう解釈した。
「はいっ、肝に銘じて精進いたします!」
腹の底から声を張り、ポールは頭を下げた。
それからの一年は、早くもあり、遅くもあった。
鍛えなおす日々はあっという間に過ぎていく。
それだけにかまけていれば、すぐに時間は流れていったこどだろう。
だが、そうはならなかった。
あの一件を期に、ポールとアニエスの間で、文通が始まっていたのだ。
手紙を送り、返事を待つ間は一日千秋。
剣を振るう時だけは忘れることが出来たが、夜に一人で思いに耽ればアニエスの顔が浮かぶ。
そして返事が来れば、丁寧に綴られた文面から読み取れる彼女の日々に思わず微笑み、返事の筆を取る。
失礼のないように。それでいて堅苦しくないように。読みやすいように、丁寧に。
きっとアニエスも同じように書いてくれているのだと思えば、いくらでも時間をかけられるような気がした。
会いに行きたいと思うこともあったが、それはやめておいた。
ポールとアニエスは、まだ婚約も何もしていない間柄でしかないのだから。
子爵家同士だから家格としては問題ないのだが、今のままでは少々体裁が悪い。
ポールが持つ『勝ちなし』の二つ名。
アニエスに付けられた『勝ち運なし』のレッテル。
この二つを払拭せねば、縁を結ぶには障りがある。
だから二人は会うことなく、手紙だけで言葉を交わし続けて。
そして、一年が経ち。
約束の日が、来た。
「ドゥラウグ子爵令嬢殿! あなたに我が槍を捧げましょう!」
収穫祭の馬上槍試合会場にて、交わした約束の通りポールが声を上げれば、アニエスが微笑み、観客は歓声を上げる。
嘲りの声もあるにはあるが、まずは軟派であるはずの男が約束を果たしたことを評価したのだろうか。
去年よりは真っ当に観客も盛り上がりかけていたのだが。
「ならば俺もドゥラウグ子爵令嬢に槍を捧げよう!」
文字通り、横槍を入れる男がいた。
人々が声の主へと目を向ければ、ギラギラと派手な鎧を纏って馬上にある一人の騎士。
鎧や盾に描かれた紋章を見ればわかる。グラウズ伯爵令息ダヴィドだ。
それを見ればアニエスの顔がわずかに強張り、ポールは眉間に皺を作った。
アニエスはもちろんのこと、ポールも交流の中でかつてアニエスが婚約寸前までいっていた男がダヴィドだと知っている。
その男が、わざわざこのタイミングで槍を捧げにきた。
となれば、考えていることは一つだろう。
「よぉ、『勝ちなし』。勝ちを知らないお前でも、これがどういう意味かくらいは知ってるだろ?」
「……貴卿もドゥラウグ子爵令嬢殿をお望みか」
ポールがそう応じれば、ダヴィドの顔が下卑た笑みの形に歪む。
「そりゃそうさ、あの女の身体は、みすみす逃すにゃ惜しいからなぁ」
そしてねっとりとした視線をアニエスの、胸元に向けた。
身震いしそうなほどの悍ましさだが、アニエスは怯むことなくその視線を受け止める。
臆することなどない。そう信じているからだ。
そしてポールも、ひたすら下品なダヴィドの挑発的な言動に揺るがない。
「なるほど。これで勝たねばならぬ理由が増えました」
一人の淑女に槍を捧げられる騎士は、一人のみ。
二人の騎士が名乗り出たのであれば、その一人を決めねばならない。
その方法は、実にシンプルである。
「ならば、どちらの槍がふさわしいか! 三番勝負にて定めようではありませんか!」
すなわち、決闘である。
大きな身振りとともにポールが宣言すれば、観客は今度こそ大いに湧き上がった。
この状況が、ダヴィドにとっては面白くない。
本来の見込みでは、『勝ちなし』の軟派者であるポールが怯んだところで、彼が華々しく決闘を宣言するはずだった。
だというのにポールはダヴィドの正面から受けて立ち、なんならこの場の主役とでも言わんばかりの顔で主導権を握ってしまっている。
いや、気にすることはない、決闘で叩きのめせばいいだけだ、とだダヴィドは頭を切り替えた。
「はっ、調子に乗りやがって。すぐに吠え面かかせてやるよ!」
そんな捨て台詞と共に馬首を返し、ダヴィドは決闘の場たる試合会場へと向かった。
この三番勝負は、馬上槍試合だけではなく剣術試合、組み打ち試合の順で三種目で行われ、先に二勝した方の勝ちとなる。
もっとも、途中で怪我のため続行不能となることも多いため、三試合行われることは滅多にないのだが。
血気に逸るダヴィドは、最初の槍試合でさっさと決めてしまうつもりなのだろう。
そんな後姿を揺らぎない目で観察していたポールは、アニエスへと視線を移した。
「大丈夫です、どうぞご心配なく。……それでは、いってまいります」
「はい、信じております、クラウンキャスト様。……どうぞご武運を」
抑えた声で言葉を交わし、ポールもまた馬首を返して試合会場へと向かう。
その後姿を見送っていたアニエスへと、隣に座っていた令嬢が声をかけた。
「ねえ、アニエス。大丈夫なのかしら、クラウンキャスト様……」
彼女が心配するのも無理はない。
ダヴィドは同年代の中でも跳び抜けた体格と膂力を持つ。
おまけに粗野な性格もあってか荒事が得意で、馬上槍試合でも剣術試合でも負けなしと言われている。
それに比べてポールは『勝ちなし』の異名を取る程の負けっぷりなのだから。
だが、アニエスは小さく首を横に振ってその心配を否定した。
「大丈夫よ。だってクラウンキャスト様は、本当はお強いはずだもの」
「え? ど、どうしてそんなことがわかるの?」
静かな自信に満ちた声音で言われ、思わず令嬢は狼狽えてしまう。
そんな友人へと、アニエスは微笑んでみせた。
「だって去年の馬上槍試合、あの方はすぐにこちらへと来てくださったじゃない。
あれだけの勢いで槍を突きこまれ、馬上から転げ落ちたというのに。よほど上手く受け身を取らなければ、立つことすら出来ないと思うわ」
「あ……それは、確かに……」
令嬢はおぼろげながら、そしてアニエスははっきりと覚えている。
なんなら頬に土埃すらついていなかったのではないか。
それほどにあの時のポールは輝いて見えていた。
……そのことに気付いて、思わず赤面してしまったりしながら。
そうこうしているうちに、二人の準備が整った。
馬上槍試合の会場で、互いに騎乗して正対する二人。
「はじめ!」
審判が合図すれば、ほとんど同時に、二騎は駆け出した。
見る間に互いの距離は縮まり、一合目。
馬をやや右に走らせ、互いの左、盾持つ側をすり抜けるようにして槍が突き入れられる。
次の瞬間響き渡る、重い衝撃音。……そして、その中に紛れる、バキンと木が折れた軽い音。
互いの槍はそれぞれに盾で防がれ、しかし。
「くそっ、次だ、次の槍を出せ!」
ダヴィドが折れた槍を捨て、従者へと予備の槍を要求しつつ、馬を返して走らせた。
馬上槍試合は衝突の勢いが激しい分、槍が折れるアクシデントは頻繁に起こる。
そのため、試合会場には予備を含めて槍を三本まで持ち込んでいいことになっているし、取り換えるための従者が控えることも許されているのだ。
だが、予備の槍を取りにいけば、当然その分は時間のロスになる。
その間に槍が折れなかったポールは、二度目の突撃準備を整えていた。
彼の計算通りに。
最初の激突において、ポールは盾を巧みに操り、ダヴィドの槍から受けた衝撃を少しずらして槍の半ばあたりへ集中するように返した。
狙いは違わず、ダヴィドの槍は折れ、ポールの槍は健在。
そして、ダヴィドが何とか槍の交換を終えて体勢を立て直したところで、馬を走らせた。
「くそっ、ひ、卑怯なっ!」
機先を制されたダヴィドはそんなことを言うが、少なくともこの国のルールにおいては反則ではない。
ダヴィドの槍は折れ、ポールの槍は折れなかった。
それはひとえにダヴィドの技量と運が足りなかっただけのこと。
二合目、更にその差が明白となる。
「な、なんだと!?」
主導権を握ったポールは、馬をやや左に向けた。
すなわち、槍持つ右側での交差。
盾で相手の槍を防ぐことが困難となる、ハイリスクハイリターンの攻防を選択。
そしてそれは、技量差が如実に表れる攻防でもあった。
そして、伯爵家の跡取りとして大事に育てられたダヴィドは、そんな攻防の経験などない。
逆にポールは、負けるために敢えて右側を選ぶことが多かった。
技量差に経験の差まで乗ってしまえば、ダヴィドに勝ち目などあるわけがない。
「がはぁ!?」
狼狽しながらも繰り出した槍をポールの槍に逸らされ、更にカウンターで突きを叩き込まれればどうしようもない。
金属鎧を突き通すような衝撃に撃ち抜かれ、ダヴィドは無様に馬上から転げ落ちたのだった。
「一番目、馬上槍試合、ポール・クラウンキャスト卿の勝利である!」
審判が朗々たる声で宣言すれば、大きな歓声が上がる。
素人目にもわかる派手な決着、玄人目には優れた技巧を駆使した勝利。
誰もが納得の試合であったのだ。
「くそっ、こ、こんなはずじゃ……つ、次だ、次!!」
……ただ一人を除いて。
苛立ちを隠すこともなく槍を地面に叩きつけながら叫ぶダヴィドへと向けられる視線は、冷たいものが多い。
予備であるとはいえ騎士の魂とも言える槍を地面に叩きつける行為。
敗北を素直に受け止めぬ潔さの欠片もない態度。
いずれも騎士としては不適格な言動であろう。
だが、それを向けられたポール本人は涼しい顔だ。
「よろしいでしょう。次は剣術試合ですね」
軽く応じればひらりと馬から降り、槍を鞍へと括りつければ駆け寄ってきた従者に手伝ってもらいながら金属鎧をテキパキと脱いでいく。
対してダヴィドは、口汚くああだこうだと従者に命じて自分は手を動かさず、なんとももたもたしたもの。
役者が違う。
既にこの時点で、観客から見た格付けは終わっていた。
「さあこい、叩き潰してやる!!」
「ええ、いざ尋常に、勝負!」
いかにも余裕のないダヴィド、淡々と落ち着き払ったポール。
大上段に振りかぶった居丈高な構えと、ぴたり、相手の中心を鋭く貫かんばかりに構えられた中段の構え。
勝負は、たった一合で終わった。
ダヴィドが力任せに振り下ろした剣をポールが受け流し、そのまま返す刃でピタリと切っ先をダヴィドの首筋紙一重のところで止める。
いかに試合用の刃を潰した剣であっても、その迫力は本物で……どっと、ダヴィドの全身から冷や汗が噴出した。
「勝負あり! 剣術試合、ポール・クラウンキャスト卿の勝利!」
審判が声高く宣言すれば、再び会場は湧き上がる。
鮮やかな、あまりにも鮮やかな勝利。
清々しいまでの決着に、観客の感動もひとしお。
ましてアニエスなどいかばかりか。
会場中がポールの勝利を祝う熱気に満たされかけた、その時。
「まだだ!! まだ、最後の組み打ち試合が残っている!!」
ダヴィドが、声を張り上げた。
三番勝負は、先に二勝した方の勝ちであり、ポールが二勝している。
負け惜しみにしてもあまりに醜悪なその態度に、会場中の誰もが眉を潜めたのだが。
「なるほど、グラウズ卿はよほど場を盛り上げなさりたいらしい! よろしい、これもまた良い余興となるでしょうから!」
勝利に不当ないちゃもんを付けられたポール本人が、快活に笑いながら応じたのを聞けば、一瞬沈黙が訪れ。
彼がばさりと勢いよく上着を脱ぎ捨てた途端、三度大きな歓声が沸き上がった。
……若干、黄色い悲鳴のような声が混じっていたような気がしないでもない。
ともあれ、不当な対戦要求を、余裕の態度でポールは受け入れた。
それもまた、ダヴィドからすれば気に入らない。
「ふざけやがって……その首、へし折ってやる!!」
ダヴィドが息巻くのも無理はない。
槍や剣と違い、徒手の組み打ちは体格差が大きく影響する。
となれば当然、ダヴィドが有利になってくるはずなのだ。
だが。
だからこそ、これで負ければ最早言い訳のしようなど欠片もなくなる。
そんなことは、ダヴィドの頭にはなかった。
殺意を込めた両腕でポールに勢いよく掴みかかった、その瞬間。
かくん、と彼の膝が折れた。
「……あ?」
「足元がお留守ですよ」
にこやかな……胡散臭いくらいににこやかなポールの笑み。
徒手の組み打ち試合ではあるが……蹴りが禁じられているわけではない。
むしろ金的目つぶし以外はなんでもありな格闘戦が本来の姿である。
もっとも、蹴りの瞬間に片足立ちとなってしまう蹴り技は使いどころが難しく、あまり使われない。
だからこそ効果的なタイミングで、効果的な場所に当てれば、その威力は絶大。
踏み込んできたダヴィドの左足が地面に着く直前、ポールはその膝下を蹴り抜いた。
……膝の皿を蹴り割らなかったのは、最後の慈悲というものである。
衝撃と痛みでダヴィドの左足は制御を失い、地面を捉えることが出来ず膝が折れ、体勢は崩れ。
程よい高さに落ちてきたダヴィドの頭を、ポールは両手でがしりと掴み、ロック。
「さあ、これで幕引きとまいりましょう!!」
言い放ちながらダヴィドの頭をロックした両手で押し下げ、迎えるように膝蹴りでその顎を打ち上げた。
ダヴィド自身の体重まで乗せられた勢いに対して、カウンターの要領で突き上げられた、ポールの膝。
その衝撃はダヴィドの脳を強かに揺らし、意識を一瞬で刈り取ってしまう。
ポールが手を離せば、どさりと糸が切れた人形のように崩れ落ちるダヴィドの巨体。
それを見れば、勝敗など明らかである。
「勝者、ポール・クラウンキャスト卿!!」
一際大きな声で、審判が宣言する。
組み打ち試合の勝利であり、何よりも三番勝負において完全なる勝利。
二つの意味を込めた宣言はもちろん観客にも伝わり、四度目、この日一番の歓声が上がった。
その歓声を受け、ポールは大きく息を吐き出し。
それから、力強く拳を天に向かって突き上げ、高らかに叫ぶ。
「この勝利を、ドゥラウグ子爵令嬢殿に捧げます!! 彼女こそ、我が勝利の女神です!!」
歓声に負けることなく響き渡った宣言に、観客達は一瞬だけ静まり返り。
その意味は、すぐに理解されて。
五度目。大地を揺るがすような大歓声の中、ポールはアニエスへと向かって歩み寄る。
「我が槍を、そしてこの勝利を受け取っていただけますか、我が女神」
告げるその姿は、この大舞台にふさわしい主役たる風格を持ち。
捧げられた熱に打たれたアニエスは、ほろりと涙を零す。
「はい、はい……っ! もちろんです、我が騎士」
感極まった彼女が見せたのは、誰も見たことがない程の幸せな笑みだった。
こうして、ポール・クラウンキャストは『道化の騎士』たる本分を全うした。
アニエス・ドゥラウグ子爵令嬢の不名誉なレッテルは剥がされ、むしろ鮮烈なる物語のヒロイン、勝利の女神として名を上げたほど。
言うまでもなく、ポールを『勝ちなし』と呼ぶ者など、一人としていなくなった。
反対に、ダヴィドが失ったものは大きかった。
負けていなかったからこそ看過されていた今までの不遜な態度で買っていた、密かな不興。
淑女と騎士の約束に割って入った身勝手さ。
三番勝負の際に見せた往生際の悪さ。
何よりも、『勝利の女神』に見放された勝ち運のなさ。
これらが相まって、騎士としても貴族としても、彼は致命傷を負い、次期当主などとても任せられないと廃嫡、次男が後継ぎとして指名された。
もっとも、彼がそのことを認識できていたかは怪しいが。
完膚なきまでの敗北を喫したせいか、強烈な膝蹴りで脳を激しく揺らされたせいか。
彼は自室に閉じこもり、二度と表舞台に出てくることはなかった。
全ての決着がつき、数か月後。
恙なく両家の合意も得られ、ポールとアニエスの婚約が結ばれた。
皆から祝福される中で手続きも終わり、一息つけたころには既に夕方に差し掛かっている。
「はぁ~……終わってみれば、あっという間でしたね。最中は無我夢中でしたが」
晴れて婚約者同士となった二人、つもる話もあろうからとセッティングされたお茶の席でポールが素直な感想を零す。
もちろんため息を吐くなど貴族としてのマナー的にアウトだが、婚約者となり身内となった二人の間であれば許されなくもない。
まして相手は、アニエスなのだから。
「ふふ、そうですね……わたくしなどは、それこそ夢の中にいるかのような時間でしたけれど」
くすくす、鈴を転がすような声で彼女は笑う。
それから、しばしポールの顔を見つめてから、口を開いた。
「……何やら心残りがおありのようですね?」
ずばりと言い当てられ、ポールは思わずカップを取り落としそうになってしまった。
己の未熟を恥じながらポールはカップをソーサーに置き、アニエスへと向き直る。
「……おっしゃる通りです。こうして正式な婚約が為され、私の槍はあなただけに捧げるものとなりました」
そこで言葉を切られて、アニエスは納得顔になった。
「なるほど、つまり今までのようなことは出来なくなった、と」
「……はい。もちろんあなたに我が槍を捧げることは心から望んでいます。しかし……」
不幸な縁談からアニエスを解放し、互いに望んで婚約を結ぶことが出来た。
そのこと自体は心から望んだことではあるし、彼女以外の女性を望むことなどありえないだろう。
だがしかし、ポールはハッピーエンドを迎えられるかも知れないが、今後も望まぬ縁談を持ちかけられる女性はいるはず。
そのことが、ポールの心に引っかかって仕方がない。
だから。
アニエスは笑った。
「それでしたら、ご心配には及びません」
と、朗らかに告げながら。
「……はい?」
思わぬアニエスの言葉に、ポールが呆気に取られた顔を見せてしまったのは仕方がないところだろう。
だが、まさかの発言をしたアニエスは、そのまま言葉を続けていく。
「実はわたくし、ポール様がなさっていたことを、お茶会などでそれとなくお話ししておりまして。
今ではすっかり浸透し、ご令嬢方経由でそのお相手様にも伝わっているような状況ですから……当事者の皆様で何とかなさるのではないかと」
「……はい??」
再び、ポールは間の抜けた声を出してしまう。
アニエスが言っていることを、理解していないわけではない。
ただ、あまりに信じがたいだけで。
「いやその、そんなことは、無理ではないですか!? 私は、クラウンキャストだから見逃されたところもあるわけですし!」
ポールは思わず声を上げてしまう。
道化の家、クラウンキャスト。
普通の人間ならば出来ない馬鹿な真似を、笑いながら行う道化の騎士。
だから「クラウンキャストなら仕方ない」と許されることも少なからずあり、時に庶民の鬱積を解消する役割を担うこともある風変わりな家。
本来ならば激しい顰蹙を買うところであろうポールの所業も、だから許されたところもあったはず。
そのことは、誰よりもポール自身がわかっていた。
だから、アニエスは笑ってみせた。
「はい、クラウンキャストの方だからこそ許されました。そして、前例が出来ました。
子爵家が伯爵家の横槍を撥ね退けた、という前例が」
「……はい???」
今度こそポールの思考回路は止まりそうになってしまった。
しかし、すぐに動き出す。
動かされてしまう。動き出さずにはいられないと思ってしまう。
目の前で微笑むアニエスのせいで。あるいは、おかげで。
「クラウンキャストだから、というのは所詮不文律、明文化されたものではございません。
であれば、男爵家が、子爵家が、収穫祭にて槍を捧げて横槍を入れる行為を遮ることなど、最早出来ないのです。
後は当事者の覚悟と技量によるものになってはしまいますが……」
アニエスが言いよどむのも無理はない。
ポール程の技量を持つ者などそうはいないし、覚悟を決められるものなど更に少ないだろう。
それでも、間違いなく道は開かれた。他でもない、彼女の騎士によって。
「ですから、前よりはずっと、理不尽に踏みにじられる方は少なくなりました。わたくしが保証いたします。
……それでは、だめですか?」
ここまで言われて、最早ポールに言い返す言葉などなかった。
無言でアニエスの手を取ると、ポールはその手の甲を己が額に当てる。
「ありがとう、ドゥラウグ子爵令嬢殿。あなたのおかげで、私の魂は救われました」
「そ、そんな……救われたのは、わたくしの方ですし……」
途端、ここまで主導権を握っていたアニエスの口ぶりが怪しくなる。
彼女は押しも押されぬ貴族令嬢ではあるのだが……直接的な触れ合いには、初心だった。
「あなたを救えたのならば、私の今までは報われました。
これより先は、迷うことなくあなただけに捧げられます。……我が槍も、我が心も。
どうか、受け取ってはいただけませんか?」
そう告げながら、ポールはアニエスの手の甲に口づける。
途端、手から伝わる熱。
ふと見上げれば、アニエスの顔はこれ以上なく真っ赤に染まっていた。
「……受け取っていただけた、ということでよろしいでしょうか?」
「きっ、聞かないでくださいましっ!」
ポールが問えば、アニエスから淑女の仮面が剥がれる。
その姿は……これ以上なく、愛らしかった。
「承知しました、我が女神」
そう言って微笑んだポールは、もう一度アニエスの手の甲に唇を落とした。
※ここまでお読みいただき、ありがとうございます!
もしも『面白かった』と思っていただけましたら、下の方にある『いいね』や☆マークで評価していただけると、大変励みになります!
※この作品内における馬上槍試合などのルールや進行は現実の中近世ヨーロッパで行われたものとは違う部分がございます。
あらかじめご了承いただければ幸いでございます。