第九十五話 思惑
それは少し前のことだった。
大阪城の一角、城代屋敷の自室で書置きを読んでいた肥前守の背後に黒い靄のようなものが溢れ、人のような影が現われた。
肥前守は現われた影に驚いた様子も見せず
「平戸屋の手のものか?」
と問うと影はゆっくりと頷いて
こよりのようなものを差し出したので鷹揚な態度で受け取り、ゆっくりと広げた
中には平戸屋から
『万事相整居候
明日巳の刻を持って天満橋界隈に出でし候』との伝言であった。
読み終えた肥前守は
「相判ったと平戸屋に伝えよ」
と声を掛けると、影はゆっくりと頷いてそのまま煙のように消えてしまい、文の方も青い炎に包まれて灰となった。
見届けた肥前守は
「誰か在るか?」
「ただいま。御城代いかが致しましたか?」
側近の畏まって現われると
「明日、閲兵を行うので辰の刻に城兵を集めよ。」
「明日でございますか?何か火急の事がございましたか?」
怪訝そうに聞く側近に対し肥前守は
「いや、そうではないが、先頃現われた化け物もまだ退治出来ておらぬ上に行方すら知れぬ。故に備えて置くに越したことは無かろう。」
「さすが御城代。達見でございます。早速城兵に周知して参ります。」
足早に去って行く側近の後ろ姿を見ながら
(これで儂も幕閣の中枢に名を連ねることが出来よう。日ノ本を我が手にする日も目の前じゃな)
とつぶやいた
次いで西町奉行の讃岐掾へも文を使わして
『先頃現われた化け物が再び現われるやも知れぬ。数日中やも知れぬのでゆめゆめ怠らぬように』
と伝えおいた。
城代屋敷に現われた黒い影は平戸屋の前に控えていた
見れば何時ぞやの鼬の妖怪で、甲三郎に連れてこられたが、甲三郎が討たれた後も平戸屋に従っていた。仲間の大半が討たれ、妖怪同士のもめ事を嫌った長老達からも見捨てられた為、残った者達は仕方なく居残っていたのだ。
「肥前守様への使いご苦労だったな。もう一働き頼むぞ。」
戻った鼬に声を掛けた平戸屋は、集結させた生き残り達を前に
「いよいよ悲願成就の第一歩を記す時が来た。『先生』の尊い犠牲を慰める為にも、今こそ立ち上がり神の御心のままに選ばれし我らの栄えのために働こうぞ!」
力強く呼びかけると、その場にいた者達も互して雄叫びを上げた。
側にいた同士に対して平戸屋は
「何も知らずに肥前守はノコノコやって来るようだ。奴を生け贄にして神に捧げてやろう。些か品の無い贄でああるがな。」
「確かに。まあ彼等を討てばこの界隈の連中は怖がって我々の前に立ちはだかる事も無いでしょうな。」
「解にも。特にあの西町は肥前守の甥だけに、叔父が討たれれば尻に帆かけて逃げ出すであろうな。」
「誠に滑稽ですな。」
二人は笑い合ってはいたが、平戸屋は内心
(西町は取るに足らぬが、東町は切れ者も多い。わざわざ奴らの当番で無い月を選んで事を起こしたが、さてどう動いてくるか?)
東町奉行所に対しては警戒心を持っていたのだ。
「剛霊武は何時でも行けよう、他の者達も手筈通りに持ち場についてくれ。」
「心得た!京へ向かうものは今より発ちます。」
「我々は大坂城代兵の物見に行って参る。」
各々が隠れ家から出て行くと
「おぬし達鼬は町に行って攪乱を頼む。」
平戸屋から頼まれた鼬たちは頷いて影に紛れた。
「では我々も参りますかな。」
平戸屋はその場に居残っていた者達と共に天満へと向かうのだった。




