第九話 土屋信濃守(つちやしなののかみ)
御前はおりょうと刷り物を手にしながら品定めしていた。
「これはどうだ?」
「これはちょい、嘘くさいなあ。うちが見た感じではこっちの方がそれっぽいかも。」
「なるほど。それにしても話を聞けば聞くほど人とは思えん。」
おりょうはその言葉に頷いて。
「正直、ほんまものの烏天狗かとおもったわ。」
「烏天狗か・・・。」御前は書棚から一冊の本を取り出した。
「烏山石燕の画図百鬼夜行やね。」
御前は静かに頷くと、天狗の絵を広げて黙って見つめた。
「御隠居なんか気になることでも?」
「いや、ちょっとな。昔のことを思い出してな。」
「昔のこと?」
「うん。まあな。」
「御隠居が昔いうたら、大名やったって頃かな?」
「まあそんなところだ。とは言ってもまだ大名になったばかりの頃だがな。」
「そんな昔なん?」
「そうだな、大坂城代をやってたのがもう5年前とすると、更に30年前かな。元服してそう日も経たずに家督を継いだものだから、幼名から抜けきらないうちに信濃守なんて呼ばれても、儂だと気づくのにいささか時が要ったものだ。」
「御隠居の若い頃かあ。ええ男やったんとちゃうの?」おりょうがからかい気味に尋ねると
「さあどうであったかな?いい男かどうかは分からぬが、実直で些か融通の利かないところのある真面目な若造だったと思う。古参のものから見れば、何かと正論を吐く生意気なわっぱに見えていたかもしれぬな。」御前は照れながら答えた。
「真面目なとこと正論を吐くとこは、まあ何となく納得やけど、融通が利かへんてとこは想像でけへんわ。そこは今とえらいちゃうかってんな。」
「まあ、そこは歳を重ねて色々とな。分かってくるところもあるのだよ。」
「で、その頃の事と、今見てた天狗の事ってどう繋がってんの?」
おりょうが興味津々といった顔を向けた
「そう急くでない。あの時のことは今でもしっかりと覚えておる。ゆるり聞かせて進ぜよう。」
御前はそう言って昔語りを始めた。
35年前、土屋信濃守久直一七才初出仕。
江戸城中松の廊下
「信濃守殿、信濃守殿!・・・捨丸殿其方のことでござる。」
「え、拙者?あ、そうであったな。拙者はもう捨丸では無く信濃守であった。」
「しっかりなされよ信濃守殿。其方はもうお目見えも済ませた一人前の官職持ちなのだからな。」
「出羽守様。ありがとうございます。肝に銘じておきます。」
出羽守と呼ばれた男は大きく頷くと、今度は神妙な面持ちで
「時に貴殿、今度の日光代参に加わると聞いておるが、誠か?」
「はい、上様の御名代として参拝される掃部頭様のお供に加わります。」
「左様か。これはまた気の毒なことよ。」
「上様の御名代のお供は名誉であり、気の毒とは異な事を申される。」
久直は怪訝な顔を向けた。
出羽守は哀れむような表情で
「常ならば確かに。名代を命じられることもその随行に加わることも名誉なこと。その儀については些かも揺るぐことは無い。ただ、此度は・・・。」
「此度はなんと?」真剣な面持ちで出羽守を見つめた。
出羽守は更に声を潜めると、
「先頃、日光の街道に天狗が出るというのだ。」「天狗?」
「左様。天狗だ。」
「出羽守様。何かの冗談ではありませんか?そもそもこの世に天狗などいるとは思いませんが。」
久直は出羽守の言葉を俄に信じることが出来なかった。
「其方が信じないのは勝手だが、実際見たものは幾人もおる。」
「幾人もと申されても、出羽守様はご覧になっておられないのでしょ?」
「確かに拙者は見てはおらぬが、信頼の置けるものから幾人も見ておると言われては、信じぬ訳にはいかぬ。」
「うーん。しかし・・・。」久直はやはり疑心暗鬼といった感じであった。
「しかもその天狗が娘を拐かしたり、物を盗んだりとかなりの悪さをやっているらしい。」
「それも見た者が?」
「いや、天狗を直に見た者も天狗が悪さをしたところまで見た者はおらぬが、見つかったところで狼藉が有ったと言われたら疑うしか無かろう。」
「それはそうですが・・・。」
居るかどうかすら怪しい天狗が悪事を成すと言うことに、久直は何か釈然としないものは感じたが、そもそも居もしないものに気を揉むのも馬鹿馬鹿しいと思い直して、
「支度も在りますので、私はこれにて。」深々と頭を下げると
「そうだな。では、御役目しっかりとな。」出羽守も会釈を返して去って行った。
2日後、将軍に挨拶を済ませた一行は日光へと旅だった。