第八十九話 お志乃の昔語りその伍
隼人坊はお志乃の身体を包むように抱きかかえると
「良いか、しっかり掴まっておれよ。」
お志乃が頷いたのを確認すると、一気に跳び上がった。
そのまま風を切るように飛ぶと、半時ばかりして山に囲まれた場所へゆっくりと降り立った。
辺りは鬱蒼としていて何か張り詰めた空気というか、明らかに先程まで居た場所とは違っていて人界からはかけ離れた場所であることは間違いなさそうだった。
黒々とした森には人を寄せ付けぬ何かを感じてはいたのだが、今のお志乃にとっては寧ろ心地良くすらあったのだった。
どれほどのこの場に佇んで居たのか、隼人坊は一言も発せず静かに目を閉じていたが、いきなり目を開けて森の奥に視線を向けると、黒い森の中から何かが近づいてきた。
少しずつ近づいて来たのは烏天狗だった。
お志乃達の近くまで来た烏天狗は、ひと羽ばたきして二人の前に降り立った。
「これはこれは隼人坊様。よくお越し下さいました。」
烏天狗は慇懃に礼を施すとお志乃の方に目を向けて。
「こちらが件の女人ですか?」
「左様だ。僧正坊殿には世話をかける。」
隼人坊はそう言って頭を下げた。
「僧正坊様は気になさっていませんよ。寧ろ楽しみにされております。」
「継信殿は相変わらずだな。」
隼人坊が笑顔を見せると継信も笑みをみせた。
継信に案内されて森の中を進むと、程なく少し開けた場所に立派な御堂が現れた。
堂の前には案内して来た烏天狗よりは年嵩見える烏天狗が待ち受けている。
「これは隼人坊様。御息災のようで何よりです。」
「羅天殿こそ健勝のようで何より。久しいが何時ぶりかのう。」
「はて、確か内府が駿河に移った頃か・・・否、島原で一騒ぎあった頃だった時だったかも。」
「いやはや昔過ぎてお互い思い出せぬようですな。」
「確かに。」
互いに大笑いをして堂宇の中へと入っていった。お志乃も辺りを見回しながら黙ってついていく。
堂内に入ると、そこには傍らにいる隼人坊に劣らぬほど威厳に満ちた天狗が端座していた。
「これはこれは隼人坊殿、よう参られた。」
「僧正坊殿お久しぶりです。この度は御足労おかけいたします。」
端座している天狗へ隼人坊は深々と頭を下げた。
「頭を上げられよ。日々のことは専らこちらの羅天達が世話をする故、儂に苦労などありはせぬ。」
慇懃な態度でいる隼人坊へ僧正坊は笑顔で答えその視線をお志乃の方へ向けた。
「で、その娘が話しておった者かな?」
「いかにも。先にお知らせしておった天狗の修行をさせる娘です。」
「なるほどのう。」僧正坊は値踏みするようにお志乃を眺めた後
「何か儚げだのう、が、芯は強そうな娘でもあるな。」そう呟いて
「時に娘よ、其方の名はなんと申す?」
お志乃に問いかけた。お志乃は相変わらずぼーっとした様子ではあったが、
「お志乃と申します。」
「お志乃か。してお志乃よ、お主が天狗の修行を受けることに相違ないか?」
「はい・・・。」消え入りそうな声で答えた。
「天狗の修行は相当厳しいぞ?天狗でも音を上げる者もおるくらいだ。人にとっては、まして女子に耐えられるかどうか・・・。」
僧正坊は考え込むような仕草をいせると
「大丈夫だと思います。一度死を覚悟した身ですから。」
やはり消え入りそうな声ではあったが、その目には何か光が宿ったようにも見えた。
「僧正坊殿、拙者からもお願い申す。このまま幽鬼のようになってしまっては、恩人に申し訳が立ちませにぬ。」
隼人坊はその場で土下座をして頼み込むと、僧正坊は慌てて抱き起こして
「儂と隼人坊殿との仲では無いか。何故断ろうぞ?ただ、人のしかも娘子故心配しただけじゃ。何より本人がその気ならば、問題は無い。この僧正坊が責任を持って鍛えようぞ。」
僧正坊はお志乃に向き直ると
「修行は厳しいぞ?覚悟はできておるか?」
僧正坊にお志乃は力強く頷いて見せた。




