第八十三話 悲願
肥前守の機嫌は何時になく良かった。
彼は平戸屋を別邸に呼びつけると満足げに
「この度は大義であったな。『先生』のことは残念ではあったが、儂が幕閣に昇った折りには、必ずやその名を竹帛にとどめ賞賛しようぞ。」
「格別のお言葉、きっと『先生』も喜ばれることでしょう。」
平戸屋は表面上は喜ばしいといった調子で平伏した。
その様子に満足したのか更に
「お主にも此度の働きに充分見合うだけの恩恵を約束しよう。」
「これは重ねての有り難いお言葉。感謝に堪えませぬ。なんとお礼を言えば良いのか・・・。」
「よいよい、それよりもあと一働き頼んだぞ。」
「そこは抜かりはございませぬが、誠に申し訳ありませんでした。本来なら心斎橋まで火の海にするはずだったんですが、竜頭蛇尾も甚だしく面目次第もありません。」
「確かにそこは点睛を欠くと言えなくも無いが、流石に東町にその人ありといわれる大石だけはある。そう簡単に事は運ばせてはくれぬようだ。」
「予定通りならば、もっと大坂の町衆に恐怖を与えられた筈なのですが。」
「剛霊武のあの姿を見せつけただけでも充分であろう。それよりも次の手の方であるが・・・。」
「策の通り行えるよう手筈を整えております。天満の近くで再び姿を現し、京街道を遡るように見せる動きをいたします。」
肥前守は平戸屋の答えに頷きながら
「京橋を過ぎて野江にかかる辺りで城兵を展開し、背後を西町の捕り方で押えるので、その心積もりでよろしく頼むぞ。」
「御意にございます。上手く退治されたふりをを致します。」
「取りあえず甥の讃岐掾にも知らせておかねば。あやつには名誉を挽回する機会になろうからな。」
「左様でございますな。支度が出来ましたらお知らせ下さい。直ぐに動きます。」
「そうか、よろしく頼むぞ!」
そう言って肥前守は意気揚々として城代屋敷へと戻っていった。
その後ろ姿を見送っていた平戸屋は
「精々浮かれているが良い。お主はもう用済みなのだからな。」
そう呟くと駕籠を呼んで屋敷へと戻ると同時に、何通かの書き付けをしたためて、あちらこちらに使いを出したのだが、その中には異国の文字で書かれていたものも含まれていた。
平戸屋は離れに腰を据えると
「して、同士はいかほど残っている?捕縛された者もいたようだが?」
「異国より参った者たちは何とか逃げおおせたようで、今隠れ家のほうに集まっていますが他は。」
「そうか・・・。」
「落命した者も多く、本邦にいるものだけで大事をなすにはいささか人手が足りぬかも。」
「そうだな、急ぎ異国にいる同士と連絡を取ることにしよう。とは言え・・・。」
「左様ですな。今のままでは・・・。」
今のままでは同士を呼び寄せたところで、寄るべき場所がない。二人の認識は一致していた。
「やはり京を落とすしかないようだな。一体の剛霊武では心許ないが。」
「一体ではありますが、その力を見せつけて屈服させるのも手ではありますまいか?」
「確かにな。儀式さえ手順を踏めば呼び出せることも『先生』のおかげで知る事が出来た。」
「屈服出来なくとも時は稼げましょうから、まずは京を落としましょうぞ!」
平戸屋はその言葉に大きく頷いた。
「それにしても何も知らぬ肥前守はさぞや驚くであろう。」
「でしょうな。何しろ城兵が打ち掛かれば退治された態で消えるはずなのですから。」
「貴選教の悲願のため利用するだけのはずが、五年前に当時の東町奉行に感づかれ、肥前守へ作りたくもない借りも作ったが、それも今までの密貿易の上りと汚れ仕事の請負で充分返した。もはや躊躇する理由も無い。」
「その通りですな。兎に角、動ける同士が集まり次第、事を進めましょうぞ。」
「われらの悲願、安息の地をこの手にする為に。そして約束の地を得る迄の充実を計る為に。」
平戸屋はそう言って何か祈るような姿勢を見せた後、同士が集まるという場所へ秘かに出立した。




