第五十八話 若宮八幡
おりょうは昼を迎えるまでに用を済ませると、八つを迎える頃合いに家を出て烏小僧の指定する場所へと向かう事にした。
渡し船に乗り、川魚市場をやり過ごして奈良方面へ向かう街道となっている川岸を進んだで行った。
川向こうには昔の川跡だったという新田が広がっている。ここまで来るとすっかり農村といった風情が広がっていて、それほど遠くに来た訳でも無い筈なのだが、町家の中で日頃暮らすおりょうにとってはどこか見知らぬ土地へたどり着いたような錯覚すら覚えていた。
それでも振り返れば大坂城が控えていてここが間違いなく大坂の片田舎である事に気付かされるのだった。
「とても大坂とは思われへんな。」
おりょうはそう呟いて先を急ぐと、目の前にこんもりとした森が目に入った。
「あれが若宮八幡さんか・・・。」
そこは若宮八幡の所謂鎮守の森といったところで、鬱蒼とした森の中に足を踏み入れると、まるで異世界に迷い込んだようだった。
それでも木々の間から神社の社が見え隠れしているので、この地が若宮八幡である事には疑いはない。
鳥居を目印に森の中を進み木々が切れ始めてそろそろ境内に達しようとしたその時、一陣の風がおりょうの体を抜けていったかと思うと、背後から声を掛けられた。
「おりょう殿、この度はご足労いただきかたじけない。」
突然声を掛けられたおりょうは驚きのあまりその場に立ち尽くした。
(うちがあっさり背後を取られるなんて・・・。いつ来たんや?)
おりょうは心の中で呟いたが、焦る様子は微塵も見せず
「烏小僧か?うちを呼びつけて何の用や?」
おりょうはそう言いながら振り返ろうとすると
「申し訳ありませんがこちらを向かないで貰いたい。」
烏天狗から制止されておりょうは振り向くのを止めた。烏小僧の声はやや上の方から聞こえるのでおそらく樹上に居るのだろう。
(今振り返ったところで姿は見られへんか。)
ほどなく地面に何かが降りたような音を感じる。
おりょうが振り向かないようだと感じ取ったのか地面に降りたようだった。
「実は折り入って貴方とお話したいと思い、お呼びしたのです。」
声は少し後ろから聞こえるようにはなったが、おりょうの間合いからはかなり離れているようで、相手の警戒心が感じられる。
「うちになんお話や?おもんない話やったら帰るで?」
おりょうはわざと煽るような物言いで相手の出方を見た。
「相当興味のある話であると理解していますが、五年前の東町奉行が抜け荷に加担していたと言う一件です。いかがですか?」
烏小僧はそう答えながらおりょうの方へ歩き寄ってきた。むろん振り向こうとすればその隙に逃げ出すだけの距離は保っているようだが。
「五年前の一件って・・・なんか知ってるんか!」おりょうは喰い気味に振り返ろうとしたが
「振り返らないで、そのままでお願いしますよ。私もまだ全貌を掴みきれてはいませんが、真犯人の目星はついています。」
あまりにも突拍子も無い話におりょうは戸惑いすら感じた。そもそも何故烏小僧が五年前の事を知っているのか。まして真犯人の目星ということはあの時罪を問われた者は無実で有るという事も確信を持っているという事だろう。
「あの事件はうちの親父も絡んでたけど、結局全貌を明かす事も出来んかったから、うちにとっても無視でけへん事件や。何よりうちの親友が悲しんでんのに、力不足で何もでけんかった悔しさもある。」
おりょうはそう言ってうつむいた。拳には自然と力が入る。
おりょうにとってあの出来事は岡っ引きになろうと決意した一件であり、その後真実を明らかにしようとした父親が殺害された事もあって、仇討ちのような面もおりょうの中にあったのだ。
烏小僧はおりょうの言葉を黙って聞いていた。その間うつむいていたようでもあり、烏小僧の張り詰めた気配が一瞬怯んだようにも感じたが、
「あなたがその様な気持ちであるのなら、私達には手を結ぶ余地がありそうですね。」
そう口にした烏小僧はいつもの気配に戻っていた。
「アホいいなや!誰が盗人と仲良う出来るかいな!!」
「まあそうでしょうね。貴方ならそう答えると思っていました。でも、取引することは出来るのではありませんか?別に我々に手を貸せとは申しません。」
烏小僧はおりょうに対して次のような取引を求めたのだった。




