第五十四話 青天の霹靂
その日はあと数日で東町の月番が終わろうとしていた昼下がりの事だった。
蒹葭堂の営む造り酒屋壺井屋の店先はいつものように賑わっていた。
そこへ突然役人が多数店先に現れて威圧するように囲むと、乱暴な口調で
「主人はおるか?今すぐここへ呼べ。」
有無を言わさぬ様子で居丈高に蒹葭堂を呼びつけた。
慌てて呼びに来た丁稚に促された蒹葭堂は
「なんでっしゃろな?思い当たる事はないんやけど・・・。」
言われるがままに店棚に現れると、待ち受けていた役人が
「我々は西町奉行所のものである、この度は酒造りについて問い糾したい議があって参った。」
「それはそれはお役目ご苦労様です。」蒹葭堂は慇懃に頭を下げた。
役人は偉そうにふんぞり返ると
「其の方酒造りにおいて宮崎屋というものに任せておると聞き及ぶが真か?」
「間違いありまへん。以前は手前でやっとりましたが、今は宮崎屋に任せとります。」
「うむ。でその宮崎屋であるが、お上のお達しに逆らい酒造りに於いて法を犯したと訴えがあった。」
「それはまた・・・どのような違反でっか。なんかの間違いやありませんか?」
蒹葭堂は納得がいかない様子だったが、役人はケンモホロロと言った様子で
「申し開きたい議があれば奉行所で聞こう。」
そう言って蒹葭堂を奉行所まで連れて行ってしまったのだ。
呆然とする残された店の者達、その日は結局商売にはならず早々に店じまいした。
数刻後、夕闇迫る中蒹葭堂は店に戻ってきた。
「旦那さんお帰りなさいませ。どないなったんですか?」
不安そうな表情をした番頭が蒹葭堂を出迎えると
「心配掛けて済まんかったなあ。私は大丈夫や。」
蒹葭堂はそう言って店の者を安心させた。
蒹葭堂が店の者に語るところによると、宮崎屋は定められていた石数以上の酒を醸造したかどで密告されたらしい。当然蒹葭堂にはあずかり知らぬ話であり、直接罪はなく罰せられる謂れはなかったのだが、使用する側の落ち度として監督責任を問われ、町年寄の役を解かれてしまったのだった。
「旦那さんが町年寄の役を解かれるなんてあんまりやないですか。」
番頭達は憤慨していたが、お上の言う事に逆らうわけには行かないと申し渡された事に従ったという。
「で、旦那さんどうされるんでっか?」
「そうやなあ、役解かれてしもうてこのまま商い続けるわけにはいかんやろうな・・・。」
蒹葭堂の一件は彼の友人知人関係に瞬く間に知れ渡り、彼の周辺のみならず様々なところに反響があったのだ。その一番は東町奉行所の面々であった。
とにかく、東町の月番中にもかかわらず彼等に一報もなく独断で行われた事だけに、怒りは凄まじいものだった。
「そもそも当月は我々当番月であり、我々が事に当たるべきであろう。処断する権限も我々に有するはずである。にも拘わらず当方を無視しての今回の事は越権甚だしい!」
「しかり。先の烏小僧の折りは為す術なく無能を晒しておきながら、越権とは姑息なり。」
東町奉行所の与力同心が挙って猛って居る状況を受けて、東町奉行名で正式な抗議を行ったが西町からの返答は木に鼻をくくったようなもので
「全てはご公儀よりのお達しである。」の一言だった。
東町と西町との関係が険悪の一途を辿っていた頃、話を耳にしたお高が蒹葭堂を訪れていた。
「いやー済まんな、わざわざ足を運んでくれて。」
「先生この度は災難でしたね。直接加担していたわけでも無いのに役を解かれるなんてあんまりです。」
「そう言われてもまあうちが全部任せてたからしゃあないわ。」
「でも、そうかも知れませんが・・・。」お高は納得いかないようだったが、蒹葭堂は悟ったような表情で首を横に振った。
「それより、お願いがあるんやけどええかな?」
「先生からのお願いでしたら喜んで。」
「もし迷惑でなかったら、今進めてる私の本の開版の話進めて欲しいんやけど。」
「もちろんです!寧ろこれで開版止めるとか仰るようなら全力で説得するつもりでした。」
お高が笑顔で答えると蒹葭堂もつられるように微笑んだ。
「ところで、先生はこれからどうされるんですか?」
「このまま商い続けるわけにも行かんし、ほとぼりが冷めるまで他所行こうかと思って。」
「そうなんですか?どこかに宛てでも?」
「実は伊勢長島の雪斉公が声をかけてくれはったから、しばらく世話になろおもうてな。」
「そうなんですね。ずっと商いと趣味でお忙しかったからゆっくりなさって下さい。」
「そうさせて貰うわ、あ、それとあの元気なお嬢さん、おりょうさん言うたかな?にもよろしゅういうといてな。」
「はい。わかりました。名残惜しいですがそろそろお暇いたします。ではお元気で。」
お高を笑顔で見送った翌日、蒹葭堂は伊勢長島へと旅立った。




