第十四話 隠密
関所の一室では、先程連れ去られたお高が不満を鳴らしていた。
「全く!加賀守様も酷い!あれでは只の罪人ではありませんか?」
先程一緒に居た人見女は「まあまあ」となだめながらお茶を勧める。
すると先程の上席がのっそりとやって来た。
「お高済まんな。ちと冗談が過ぎたようだな。」笑顔の上席に向かい
「加賀守様どういうことですか?大久保のお殿様とあろう者がお暇なのですか?」
お高は険のある言葉を投げかけた。
「これは面目ない。これでも忙しい身なのだ。其方に会いたくてわざわざ城を抜け出してきたというのに。冷たい事だの。」加賀守は泣く真似をして見せた。
「あー白々しい。加賀守様が会いたかったのはこちらの本ではございませぬか?」
そう言ってお高は懐から油紙で丁寧に包んだ物を差し出した。
「おおそれは?もしかして例の奴か?」
「左様でございます。」
加賀守はお高から奪うように本を受け取ると、もどかしげに油紙を開いた。
書名には『南城懸志』とあった。
「唐の国の地理の本ですよね?なぜ禁書だったんでしょうね?」
お高は不思議そうに問うた。
「おそらく耶蘇の寺の記述でもあったんだろうな。その位でもまかり成らんとなるからな。」
加賀守は嬉しそうに本を眺めながら答えた。
「加賀守様なら簡単に手に入りそうですけど?」
「無茶を申すな。城持ちとて只では済まん。それより、禁書目録に載せられてしまった本を手に入れる事が出来るとはさすが隠密じゃな。」加賀守がいたずらっぽい表情を浮かべた。
「加賀守さま、しー!」お高はしかめっ面を作って指を口に当てて見せた。
「これは済まぬ。」
「済まぬでは済みません。身分が知れたら大変なのですから。」ふくれっ面でお高はそっぽを向いた
そんなお高の様子などお構い無しに加賀守は続けて
「それにしても、ただ本の商いの為だけに上方へ上るのではあるまい?大方大坂に現れた烏小僧が理由ではあるまいか?」
「何故それを?老中以上は知らぬはずですが?」
「蛇の道は蛇。儂は箱根関を預かる小田原の藩主ぞ。先日来何度も大坂より早馬や早飛脚がやって来たら嫌でも目に入るし、人の口に戸は立てられまいよ。」
「確かに。」
「交通の要衝とは情報の要衝でもある。江戸からの知らせも江戸への知らせも全てお見通しだよ。」
加賀守は自慢げに笑みを浮かべた。
「では、隠密の情報など必要無いのでは?」意地悪に問い返すと
「お高、それは違うぞ。隠密からの情報は微に入り細に入った正確な情報だ。こちらの漏れ聞こえて得た情報とは値打ちが違う。」
「そう言うものですかね。」
「そう言うものだ。それにしても本屋に貸本屋とは考えたな。ことに貸本屋であれば大店の商家や職人長屋、上は旗本大名屋敷まで、どのような家にでも招き入れて貰える。しかも馴染みになってしまえば口の軽い使用人から値千金の情報も手に入る。」
「ええ、うちの者は全て探索方の役人や下働きですから、江戸で手に入らない情報はありませんよ。大坂や都の店もじきにそうなるかと。」
「それは羨ましい。とにかくお役目しっかりとな。」
「ありがとうございます。あと、本のお代はまた当月の晦日にでも取りに伺わせますので。」
「ちゃっかりしておるの。まあ良い。道中気をつけて。」
お高は深々と頭を下げた。
「さあお高さん。」不意に声をかけられて振り向くと
「そのままでは捕えられた者が逃げ出したようになりますわ。どうぞこちらにお着替えなさい。」
人見女はそう言って、仕立ての良い先程とは全く様子の違った着物を差し出した。
「助かります。」
「加賀守様のお戯れが元ですから。それより、今着ているものはきれいにして晦日の集金の方にお渡ししておきますね。」
「何から何までありがとうございます。」
お高は用意された着物に召し替えると、化粧も少し雰囲気を変えて大店の女将さん風に仕上げると、人見女に見送られながら関所を出た。
箱根まで供をしてきた背負子は別立ての荷駄で送って貰い、自身は伏見にお参りに行く江戸店の女将として駕籠に揺られながら箱根の山を下った。
その後お高は駕籠や馬を乗り継ぎ、時折大店の女将らしい遊びを交えながら東海道の旅を続けて京都へたどり着いたのは、箱根の関を抜けてから12日後のことだった。




