動乱の時代
やはり4話は無理でした。
5話。5話で終わります。
05:00に予約の筈が、10:00でした。
予約時間にアクセスしてくれた方には、申し訳なく。
日露戦争は、日本海の戦いであった。黒龍海峡から対馬海峡までである。
日本の勝利条件は、簡単だった。敵艦隊の殲滅である。条件は簡単でも現実には難しいのだが。
ロシア艦隊の消息が掴めない。ウラジオストクと江原、両方とも防諜が厳しく情報が入ってこない。入ってきてもガセだったりする。8割の嘘と2割の真実。日本海軍は振り回された。
沿岸航路が襲われ、損害も出る。まだ敵をやっつけられないのかと、やきもきする国民。
遂に新潟が艦砲射撃を受けた。嘘情報に振り回され、日本艦隊は釣り出されていたのだ。
東京では、海軍省や海軍高官の自宅への投石などもあった。新聞も避難するし、議会からも非難を浴びる。
拙い。海軍は米州と南天から艦艇を呼び寄せた。今まで呼び寄せていなかったことが分かり、さらに非難を浴びる。
しかし、これで緻密な哨戒網の構築が出来た。ロシア・ウラジオストク艦隊の撃滅に成功する。この時、日本海軍の主力艦である厳島と松島が被弾大破。大幅な戦力低下が有った。
厳島と松島は、日本海軍が八八艦隊構想の元、イギリスに発注して作った8隻の敷島型主力戦艦の内2隻で有る。他に敷島、宮島、初瀬、朝日、三笠、橋立の6隻が居る。宮島は南天、初瀬は米州に派遣されていた。八八艦隊構想では、他の8隻の装甲巡洋艦を揃えることが出来た。
停戦を求める日本に対して、ロシアはバルチック艦隊の派遣という返事をした。
日本は、ならばバルチック艦隊到着までに、朝鮮半島からロシア軍を叩き出すまでとして行動をした。
朝鮮半島への上陸作戦で有る。江原南部へ上陸。北上するという案で有る。ただ。李氏朝鮮から拒否されてしまった。この頃はまだ行儀が良かった日本は、江原直接上陸を敢行した。海軍は当然上陸支援で有るが、この頃は射程や照準の関係で要塞砲に艦艇が勝てないと思われている頃で有る。
事実勝てなかったが、橋立大破他、触雷で損傷又は座礁多数という多大な犠牲の上に上陸は成功。港内への進入路が一つしか無いのは知っていた。湾内でも外れると座礁するのは、湾内に入ってから知った。
問題は、要塞だった。日本の情報網では、ここまで大規模な要塞では無いとされていた。
予想を上回る要塞に陸軍の損害は増える一方だった。
要塞を正面攻撃した結果、2個師団相当の人数を磨り潰し、2万人余りが鬼籍に入った。廃兵も1万人近い。力押しを選んだ結果、ロシアが大量に導入した機関銃の威力と、巧みに隠蔽された各種砲の前に大損害だ。
力押しをしている間に工兵が地道にトンネルを掘り、敵要塞通路に爆薬を仕掛けて破壊。歩兵の進入路を作る。そこからの損失がまた凄かった。十歩で一人。そう言われるほどの血を流し命で進んだ。
江原要塞を攻略するのにまた1万人失った。
ロシアに停戦を提案する。
しかし、バルチック艦隊は日本への進路を変えない。既にカムラン湾で補給を済ませ、今は上海港外に居る。苦情を言うが、本気で追い出さないことにフランスと清がロシア寄りで有ることが分かった。
日本海軍は、無線機を積んだ艦艇を東シナ海に展開。バルチック艦隊の動向を監視する。
佐世保に集結していた連合艦隊は、バルチック艦隊出港の報に五島列島沖に展開。日本のどちらへ向かっても迎撃出来る態勢を作った。バルチック艦隊は日本の南を廻らずに対馬に向かう模様と進路情報から判断。済州島に向かう。バルチック艦隊は最短距離でウラジオストクに向かうか、江原の日本軍を襲撃すると思われた。
両艦隊は済州島北東海域でぶつかる。両者とも、休養、気合いとも十分で有る。反航戦を取ると思われた日本第一艦隊は、バルチック艦隊直前で急転舵。前を押さえようとする。前を押さえられたくないバルチック艦隊は転舵して同航戦に持ち込もうとした。そこへ、第二艦隊が高速を利して前を押さえた。
第一艦隊は同航戦。第二艦隊は前を押さえ、敵の先頭艦に射弾を浴びせる。問題は第二艦隊の艦艇が装甲巡洋艦主力の軽快艦艇であり、砲威力に劣ることだ。バルチック艦隊は落後艦も物ともせず、そのまま第二艦隊を押し切る形で突っ切った。第二艦隊にかなりの損害が発生した。ただその間、第一艦隊はバルチック艦隊中央より後方の艦に猛射を浴びせ、かなりの数を脱落させた。そして、ジワジワと近づく第一艦隊を相手取るべく転舵。第一艦隊に被せた。逆にT字戦法を完成されてしまった。第一艦隊は焦りすぎたのだった。後年「ロジェストヴェンスキーの逆襲」と呼ばれる。
今度は先頭にいた旗艦三笠が転舵するも集中砲火を受け沈没。後続の敷島は転舵が間に合い同航戦に持ち込もうとした。ただ、近づきすぎていた。全量射撃であっても命中率が高い距離だった。敷島沈没。危うい一艦隊で有ったが、第三艦隊が隊形を整え割って入った。満を持しての魚雷発射。
第三艦隊は、小型艦中心で哨戒任務が主であったが「バルチック艦隊対馬方面に向かう」の報に駆逐艦と水雷艇の間に合う艦で急行したのである。既に砲戦の末、中小口径砲はかなりの損害を受け、使える砲が少ない。それでも近寄らせまいとする砲撃に、犠牲を出しながらも射点を確保。魚雷を発射した。
これが決め手となった。
主戦場となった海域は対馬沖であり、対馬沖海戦と呼ばれる。
決戦部隊で有ったバルチック艦隊が破れ、遂にロシアが停戦を受諾した。
講和交渉は難航した。陸海で辛うじて勝った日本が優位だが、まだ後続兵力があると言い張り負けを認めないロシア。結局、ロシアが朝鮮から撤退することで決着が付いた。ロシアはこの後、ウラジオストクを補完する港としてナホトカに注力する。
賠償金が取れないことに、一部知識人や弁論家、さらに一部の新聞が大衆を扇動。日本本土各地で抗議行動が起こる。それを無視する政府に対して過激化。遂に日比谷暴動が起こった。あっと言う間に鎮圧され、逮捕者が大量に出る。もしかしたら、反動分子や扇動家・強行派の動きを見張り一網打尽にしたのかもしれない。
世界はいろいろありながら流れていく。氷山と衝突した巨大豪華客船。合衆国でT型フォードの登場。自動車産業のみならず、以降の産業各種に大きな影響を与えた。
日本では元号が大正となった。
そして、日露戦争からわずか10年。バルカン半島で暗殺事件が起こる。
ヨーロッパ戦争の始まりである。
当初、日本は静観していた。イギリス以外に余り深い付き合いのある国は参戦していないし。スペインとポルトガルはアメリカ大陸の戦争と同じように、上手く逃げ回っている。イギリスは自分から戦争しに行ったので、協約の範囲外である。
日本が参戦したのは、いくつかの切っ掛けがあった。
まず、イギリスから「不足している技術をドイツから手に入れないか」勝った後でドイツの技術を持ち帰れば?
次いで、スペイン船が無制限潜水艦戦で数隻沈められた。これによりスペインがドイツに宣戦布告。協約の穴で、日本も自動参戦となってしまう。アメリカ南西協約は、地域を限定していなかった。スペインとしては、日本を巻き込みたかったのかもしれない。ポルトガルもいやいやながら引きずり込まれた。
ほくそ笑んでいるのは、イギリスだけだろう。ドイツは真っ青になっているはずだ。
この時、日本の人口は本土3800万人、南天1800万人、米州2000万人。スペインはメキシコ以南のカリブ海沿岸諸国に相次いで独立され、本国とアメリカ南部で3200万人。ポルトガルもブラジルに独立を許した。こちらは本国のみで600万人であった。これだけの人口を擁する国家が商船数隻の戦果と引き換えに敵になる。
ドイツは直ちに無制限潜水艦戦を中止したが、遅かったし最初からやってはいけない事だった。
各国とも、バルカン半島の南。オスマン・トルコの動向が気になるが、ヨーロッパ戦争の数年前に有った戦争で負ったダメージが思ったよりも大きかったようで、ヨーロッパ戦争は今の所静観している。勿論機会があれば食い込んでくるだろう。ドイツは盛んに秋波を送っているが、相手にされていない。もし参戦するとすれば、三国協商側でだろう。
戦争は、アメリカ南西協定加盟国の参戦で、一気に形勢が傾くかと思われたが、中央同盟の粘りが凄かった。
ヨーロッパ戦争は有史以来最大かつ最悪の戦争だった。
戦死・戦病死・行方不明、含めて全体で1600万人。負傷者は1500万人。犠牲者だけでもとんでもない。
従来の戦場には無かった新兵器や戦術思想の登場は、戦場をより大規模に、かつ悲惨にさせた。
余りの犠牲と内政の混迷にロシアで革命が起こった。最後に残ったのがレーニン率いる一派で、ソビエトの誕生であった。
戦争を終わらせたのは、各国の疲弊もあったが、通称スペイン風邪の流行だった。継戦能力の激減は戦意をそぎ落とし、戦争を終わらせるには十分な理由だった。
ドイツ国内での海軍反乱から、なし崩し的にドイツは混乱。遂にドイツ皇帝ヴィルヘルム2世の退位と亡命でドイツが降伏。
ここにヨーロッパ戦争は終わった。
犠牲者が増えたのは、機関銃を構える敵に対する横隊突撃が第一因だった。何回もやられているのに、またやる。日露戦争で痛い目に遭った日本は、これを無闇にやっていない。各国は極東の戦いであった為なのか、戦訓を詳細に分析したのかしなかったのか。露など当事国だったろうに。
次いで塹壕戦である。山から海まで伸びた塹壕は、血を流す排水路のようだ。
毒ガスや火炎放射器、戦車、都市に対する戦略爆撃もヨーロッパ戦争からだ。
その中で戦争中に格段の進歩を遂げた物に、飛行機があった。
日本もコツコツとやっていたが、やはりヨーロッパ諸国が中心である。アメリカ合衆国が発祥であったが、アメリカの技術は妨害され手に入らない。理由について首脳部は「合衆国は、まだ日本やスペインを侵略する気でいる」と考えていた。
講和条約締結前から、日本はこの戦争で発達した技術や機械を手に入れるべく、大量の技術系人間を中央同盟に派遣。手当たり次第に手を付けていた。ただ、条約発効前に持ち出す事は出来なかったので「日本が欲しい」と印をしていた。
条約は厳しかった。ドイツは二度と立ち直れないのでは無いかと、思われるほどだった。強硬派はフランスやベルギーなどの直接国土を蹂躙された国だった。イギリスは無差別爆撃に晒された怒りは有ったが、多少は理性が残っていた。ただ、国内の強硬意見に押され、結局は多額の賠償金を課した。これは各国ともアメリカ合衆国に借りた戦費の支払いに充当すると共に、国土回復と被害者救済に懲罰的なものも有った。
日本、スペイン、ポルトガルは、自国の損害に見合うだけの賠償に多少の上乗せと、技術や機械を求めた。3国はアメリカ合衆国から戦費の調達が出来ず、自国内と旧領で多額の国債を発行して凌いだ。中立国相手にも戦費とする債券を発行したが、引き受ける国が小さな国ばかりで多額の対外債権は発生していない。これにより、財務内容の悪化とインフレが起きている。
アメリカ合衆国以外は、戦費の償還に苦しむ事となる。
アメリカ合衆国は戦後、資金力でイギリスを抜き世界一になった。
戦争参加国は、全部債務国になったと言ってもいい。
有り余る資金。その資金投入先の一つに、ドイツがあった。敗戦して人口減と損害賠償でボロボロになっているとは言え、その工業力はヨーロッパにあって無視出来るものではなかった。それは見事な還流になるはずだった。ドイツから賠償金が払われる。債務国が賠償金で債務を返還する。返還された債務をドイツに投入。ドイツが多少とも持ち直せば、債務の返済はスムーズになる。ただ、マルクの下落が激しく、思ったようにはいかなかった。
そのサイクルは10年で限界を迎えた。途中いろいろと梃子入れをしたが、マルク下落で思うように金を生み出せなかった。
1ポンドを買うのに10万マルクが必要となるほどだった。
それでもアメリカの投資が続いている内はなんとか持っていた。アメリカとしては、ドイツ製品が格安で手に入るのである。だが、アメリカ合衆国国内で景気が過熱し、国内投機が増えると、ドイツに掛ける金が減っていく。遂に支払い停止を宣言してしまった。
さすがに拙いと思い協議をするが、フランスとベルギーが強硬であり、協議は長引いた。アメリカ合衆国が追加援助(新債券の発行)をして、一息ついた。
アメリカ合衆国で発生した、恐慌を皮切りに世界中が恐慌に巻き込まれていく。それほどまでにアメリカ合衆国の資金力と経済的影響力は高かった。ドイツも当然巻き込まれ、さらに国内が混乱していく。こうなると賠償金支払いなど出来なかった。幾度も協議が行われるが、物別れに終わる。ドイツ国内ではナチス党が台頭。外資の逃げ出しが始まる。余計に不景気になっていくドイツ。
遂にナチスが政権を取る。ナチスとしては金が無いので、強引な景気回復策として国内開発と再軍備を進めた。勿論金は債券である。債券の償還は長くしている。金利も多くなるが、その頃には上手くいけば償還も可能なはずであった。失業者は確かに減ったが、政府の財政赤字は加速していく。ドイツは綱渡りの外交をしていたが不思議な事に上手くいった。だが、その強引さと英仏の自国以外は非戦の為に犠牲にするという行為で、ヨーロッパ諸国に混迷を招き英仏に対する不信感を募らせた。
ヨーロッパに暗雲が立ちこめてきた。主役はドイツである。
次回更新、早い内に。
日露戦争の結果が気に入らない人もいると思います。特に海戦で。でもこうなりました。
ヨーロッパ戦争で戦死傷者が少ないのは、バルカン方面でトルコが戦端を開いていないからです。
3ヶ国がアメリカ合衆国から戦費調達が出来なかったのは、アメリカ南西協定加盟国だったからです。
ルシタニア号事件は発生していません。代わりにスペイン船が犠牲になっています。よって、アメリカ合衆国の参戦はありません。実戦経験を積めない。
アメリカ合衆国は、国土が史実よりも小さいので、国土開発費が少なく移動経費も少なく済みます。軍事費も両洋に艦隊を整備しなくても良いので、財政負担は少ないです。結果、人口が史実よりも少ないのに、7割程度の経済力になっています。作者推定。