激動の時代
3話です。4話で終われるのか不安になってきました。
多少の前後は大目に見てください。
蒸気機関が発達して、蒸気船や蒸気機関車が実用化されると、世界は相対的に狭くなった。
移動時間の短縮と大量輸送が同時に起こったのだ。
帆船では不可能な時間で届く人と荷物。やはり不可能な量の荷物。蒸気機関車を使った鉄道でも同じで、馬車輸送を圧倒する。
一気に大量の人と物資を運ぶ事は、軍事でも有利だった。当然ながら軍事も進化する。
日本も遅れまいとするが、技術発展の中心はヨーロッパだ。どうしても導入は遅れる。日本がヨーロッパの最新情報を入手するために、外交の必要性を大きく感じてきている。今までは、都度、使節を派遣するなどしていたのだが、恒常的に使節を置く事を決意する。大使館の設置である。
各国と交渉するも、首を縦に振る国は少ない。イギリスとスペインには置く事が出来た。ポルトガルとオランダも。
合衆国は拒否した。ヨーロッパ諸国の多くは曖昧な返答だったのに、合衆国は明確に拒否をした。その理由が酷かった。
「彼奴ら(日本とスペイン)は、合衆国の土地を占拠している。返還しないと国交など結べない」
ヨーロッパ諸国からは(頭)おかしいと思われた。日本とスペインの方が先に居るのだ。明らかにおかしい。
合衆国はこの件でヨーロッパ諸国から警戒されてしまう。独立戦争の影響がようやく収まったかと思えばこれだった。
ただ、ヨーロッパ諸国としても技術発展による人口増加で国内から人を減らしたかった。人は増えども職が無かった。合衆国と南米はいい移民先である。
お構いなしに人を送り込んだ。
更に最下層労働者として、奴隷貿易が続いていた。蒸気船の発達で、更に増えるかと思われた。だが、ピークは過ぎていた。ヨーロッパ諸国から低賃金で雇える移民が入ってきている。無理やり働かせるのに苦労する奴隷よりも、多少の賃金を払えば勝手に動いてくれる人間の方が、取扱さえ間違えなければ楽だ。
さらに宗教的人道的見地からの奴隷反対と言う声と、奴隷にかかる経費の上昇で美味しい商売では無くなってきていた事もあり、奴隷貿易は無くなっていく。
代わりに奴隷を得ていた地域を経済的にも政治的にも支配しようとした。
スペインは既にカリブ海周辺の中南米が有るので、無関心だった。疲弊している国力的に無理だし。
ポルトガルもブラジルで一杯一杯。と言うよりも持て余した。ポルトガルも、スペインに倣ってブラジルの部分売りを考えた。しかし、下手に売って後からお宝(地下資源)が出てきたら、悔しくて夜も眠れない。それを考えて、地道に開発を続けるのだった。芽が出るのは相当後だったが。
スペインもポルトガルも後年、海外の土地は独立されてしまうが、権利を相当持っており国家財政を支える。
その頃、アジアの端っこでは、ロシアが頑張っていた。清から多くの土地を強奪しようと。清は国自体が終わりかけており、有効な手立てを打てなかった。日本の手助けなど受けないというプライドは有ったので、日本としても経過観察するしか無かった。
結局、清は満州を守れたものの、沿海州や他の土地は取られてしまった。日本とロシアが対峙する事になった。
日本は勘弁して欲しかった。東では合衆国。西ではロシア。たまったものではない。侵攻性の高い国に挟まれた。
この頃、日本の人口は、本土2800万人。南天1300万人。米州1100万人で有った。米州への移住を増やしているので、米州の人口増加具合が大きい。
合衆国の人口が2000万人程度で有り、攻められると負ける可能性が有る人口である。日本としてはもっと増やしたい。
合衆国の人口増加はヨーロッパ諸国からやってくる移民や奴隷も含めた人口増加だけに、日本単独では対抗出来ない。かと言って、よその国の人間を入れるのは抵抗が有った。しかし、合衆国に対抗するために人口を増やす当ても無い。
朝鮮人は朝鮮通信使の行動を見るに敬遠したかった。清なら可能性もあると考えたが、あの国がそん事に応じるだろうか。
清との交渉で、清国内でどちらかと言えば敬遠されている少数民族から募る事にした。50万人から100万人と言う事で有った。清は棄民をする気でいる。そう思えたが、敢えて受け入れた。また、清の許しを得て越からも移民を募った。
他には、ルソンとシャム(タイ)。シャム周辺の国家からも募った。
確かに米州の人口は急増したが、問題は日本人以外の移民達が教育をたいして受けていない事だった。
事有る時には、冷酷だが肉壁扱いをするつもりで有った。が、これでは軍事教練をしても有効性が疑われた。
喫緊の問題として、教育が優先される事になった。皮肉なもので、移民達は喜んだのである。
勿論教えるのは日本語と算術だ。読み書き算盤である。
その頃、合衆国内で内戦が起こった。南北戦争である。奴隷解放などのお題目は唱えたが、結局は経済戦争であった。最終的に北部が勝ったが、もつれにもつれ6年間も続いてしまう。これで、大きく疲弊した。しかし、戦場には新技術が次々と持ち込まれ、戦争技術は発達した。
日本はまだ幕府体制であったが公家や硬直化した官僚侍の弊害や腐敗、細かすぎる行政単位による非効率も有り、将軍が先頭に立つトップダウン式で改革が進められた。下々からなどとても可能性は無かった。それほどまでに内政と一般社会は安定していた。一般民衆も、カチカチ頭の官僚侍や役人の腐敗ぶりに顔をしかめながらも、生活が安定していたので不満は少なかった。
南天と米州のもたらす富がそうさせていた。将軍は、それに危機感を抱いたのである。
何時までも
有ると思うな
あの富を
幕府や朝廷が石見国で石見銀山を掘って、その間石見国と周辺は大いに栄えた。だが、最近は産出量が落ちていた。無理に深く堀りに行くだけの経費を掛けることも出来なかった。他の金山、銀山。当時東洋最大だった足尾銅山も同じで有った。
結構前にメキシコで超大規模銀山が開発され、安価な銀が世界に出回ると、日本の銀が相対的に高値になってしまった。金を掛けないように掘らないと対抗出来ない。したがって産出量は低下する。
また、産出量が落ちるとと共に、景気も悪くなっていく。将軍はそれを知り、このような句を記した。
(俺の責任では無い)
そう思いながら。
スペインには、もう少し銀の値を上げるように交渉中だ。
清がアヘン戦争で敗れるという事態も刺激になって、危機感を覚えていた。
日本でアヘンの危険性を調査した結果、アヘンをご禁制とした。ご禁制になるような物を貿易に使うなどと言う国とは、深い付き合いをしたくないのだった。
将軍は北条家の伝統である「民を大切にすれば自らも栄える」を念頭に置き、改革を進めた。勿論天皇の意向もある。天皇も増長する一部の公家に懸念を抱いていたのだ。
数回行われた天皇(皇太子も含む)と将軍の面談で、
国家の根幹をなす定めを作る。
公家や武士以外の民からも、政に参加出来るようにする。
武力の暴走が起きないようにする。
この三点を優先することとした。
国家の根幹となす定め。
憲法である。
フランスを参考にしようと思ったが、ナポレオンの帝政と共和制が入れ替わりしている頃であり、とても参考になるようなものでは無かった。プロシア憲法には見るべきものが有ったが、王政のための憲法で有り、参考にするのは止めた。
何処の国の憲法も一長一短であり、それらを参考に制定するとなった。天皇を頂点とする日本に良い物で有ると信じて。
公家や武士以外の民からも、政に参加出来るようにする。
議会である。
これはイギリス式を参考にした。
武力の暴走が起こらないようにする。
これは困った。今の日本は、天皇(文民)と将軍(武力)の二重権力構造になっている。さらに、地方まで細かい統制が行き届いているとも言えなかった。今まで無事だったことが奇跡に思えてきた。
命令系統の一本化。
武力発動時における責任者の明確化。
武力行使者の権限を限定。
この三点が特に重要に思われた。本当に今までよく無事だった。
最終的に、国家の最高責任者を天皇。実働最高責任者を将軍とした。つまり天皇は「君臨すれども統治せず」となる。
将軍に全ての権力が集まるようになるが、憲法で縛ることにした。
孝明天皇と北条 康敬の時代、西暦1868年であった。
思い切って改元をした。慶応はたった4年で終わる。孝明天皇は自ら退き、次代の天皇へと禅譲した。
新しい元号は、明るい世と治世を願い幾多の候補の中から【明治】を選んだ。明治天皇の誕生である。
明治が始まった。
これは世界に衝撃を持って迎えられた。なにしろ緩やかな政体の変換だ。それもトップダウン式の。だいたいが革命・内戦・暴動というドラスティックな変わりようである。特にフランスは酷い。本当に上手くいくのか、注目されていた。
明治元年。日本の人口、遂に3000万人に達する。南天、1400万人。米州、1400万人。
遂に米州の人口が、南天に並んだ。これは日本が国策として南天よりも米州へ移民を集中させたためだ。未だに合衆国は脅威である。南天は移民10万人を除くと自然増である。ただ、南天では移民への教育が追いつかないと悲鳴を上げている。増えた300万人の内、日本以外からの移民が100万人。日本からが100万人。100万人が自然増だった。
ただ、合衆国は3000万人を超えた。ヨーロッパ諸国からの移民の勢いが凄かった。内戦中は勢いが止まったが。それでも、南アメリカ各地にも分散しているので、これで収まっている。もし南アメリカ各地への分散が無かったら、4000万人に届いていただろう。移民通過地点のフランス・スペインと、アフリカ沿岸に拠点を持つイギリスの三カ国は、移民輸送で大いに儲けた。他の国には、これほどの商船団や拠点が無かった。
日本としては、米州と合衆国の人口比率を1:3以内に保ちたかった。無理だろうが、あまりに離されたくは無かった。総動員出来る兵力を人口の5%と見た場合、70万対150万だ。勝てないが、まだ負けない。これが人口3000万人と1億になったときは、150万対500万だ。勝てるとも思えない。本土と南天からの援軍が到着するまでに負ける可能性もあった。
そこまで人口が増えるには時間も掛かる。それまでに対抗出来る準備をすればいい。
日本の仮想敵国第1位は合衆国(アメリカ合衆国が正式名称である。合衆国は日本からの通称)、第2位がロシア、第3位がイギリスとスペイン。他は警戒するだけで良い国や地域だ。
明治になった頃は、合衆国以外とは何の問題も無く国交を重ねている。
ヨーロッパは動乱の時代であった。もっとも長期に安定していた時代など無かったのであるが。
普仏戦争が起きる。フランスが敗れ、帝政ドイツが成立した。フランスは2年ほどの内乱時代になる。
普仏戦争の原因は、フランスの内政および外交上の失策を鉄血宰相ビスマルクが上手く利用したと言う説が主流であり、事実だと考えられている。実力的にもプロシア軍がフランス軍を凌駕しており、当然の結末と言えた。
フランスはこの頃の数年間で、バカとかアホと言われる政治上の失策どころでは無い行為を行って国力をいたずらに疲弊した。そして、ドイツに奪われた金を稼ごうと、海外進出を強引に推し進める。
帝政ドイツは、ヨーロッパ中央に巨大な軍事国家を出現させた。これはプロシア統一のために必要であったが、周囲に脅威をまき散らし不安定要因になっていく。
ブーツの国は、おこぼれを拾いようやく統一を成し遂げた。
スペインとポルトガルは、ヨーロッパ中央には関わらないよう慎重に立ち回った。
スペインが襲われたとの知らせが入ってきた。南下する合衆国とスペインが衝突したのだ。勿論原因は合衆国側に有る。内戦で疲弊した合衆国は、内部から立て直すよりも外部から奪う方が手っ取り早かった。些細な境界線での発砲だった。しかし、合衆国内の新聞社が捏造した上に大袈裟にしたのだ。新聞を売るために。これで、合衆国国内で民衆が騒いだ。それにより事態は拡大して武力衝突となった。
結果は、兵力と装備に勝る合衆国の勝ちだった。普仏戦争と同じである。強引に多くの領土をせしめようとする合衆国だが、ヨーロッパ諸国からボロクソに言われ手を引かざるを得なかった。だが、スペインはジョージアを取られてしまう。ヨーロッパ諸国の介入が無ければ、フロリダまで取られただろう。
スペインは少しでも憂さを晴らそうと、ジョージアから持ち出せるだけ持ち出した。人も物も。合衆国は当てが外れて歯ぎしりしているだろう。だが、勝利により合衆国内が一時的に落ち着いたのは確かだった。
スペインでも合衆国が仮想敵国第1位になっただろう。日本は2位か。
この事態を受け、日本とスペインはアメリカ南西協定を結ぶ。対合衆国相互防衛協定だ。こちらから攻めた場合には、協定参加国の参戦義務は無い。攻められた場合は相互に防衛協力を行う。
また合衆国の新聞が騒ぎ政治家も騒いだが、内政干渉で有るとして突っぱねる。
これが発展して、防衛から貿易までの広範囲なアメリカ南西条約になっていく。さらに後だが、南アメリカ各国も参加してくる。
ヨーロッパや南北アメリカ大陸では鉄道建設が進む。日本も東海道線が開通した。だいたいが標準軌で有ったが、日本本土は国内の地形を考え狭軌とした。これにより国内での鉄道建設がスムーズに進むのであるが、標準軌と比べて輸送力の上限が低いのである。しかし、この頃には問題になっていなかった。
南アフリカで第2次ボーア戦争始まる。チャーチルの台頭が始まる。
清で西太后が事実上の実権を握る。日本に対して各種要求をしてくるが相手にせず。やがて、台湾を返せと言ってきた。無償で。
冗談では無いと突っぱねる。既に主要言語は日本語になっている。投資した金額もバカにならない額だ。各地で小競り合いが発生する。事実上の戦争状態になっていた。
清(西太后)が日本に宣戦布告をしてきた。日清戦争である。
日本艦隊は、清の最新戦艦、定遠と鎮遠を警戒するあまり動きが悪い。日本海軍の主な艦艇は、広大な海面を走り回るべく、軽快艦艇が主力だ。定遠と鎮遠に対抗など出来ない。だが遂に黄海海戦で勝利する。威海衛に籠もった北洋水師はその後降伏する。日本陸軍は紫禁城付近まで攻め立て、遂に西太后が降伏する。ロシアがこの隙に朝鮮半島に手を出すが、国際社会からの批判を浴び撤退した。油断も隙もなら無い奴らだ。
日本は勝てないと世界で注目されたが、清が弱すぎた。財務内容は悪化していたのだが西太后の浪費でさらに弱体化していた。少ない軍の予算は正面装備に西太后好みの一点豪華主義が有ったが、それ以外は弱体だった。兵の士気や継戦能力も一部を除き低かった。アヘン戦争はイギリスが相手なので負けたと思っていたが、日本にも負けた。列強の手が伸びる。この後、アフリカに次ぐ草刈場となっていく。
日本が勝利し、清に対して行った戦勝国としての要求は、それほど過酷では無かった。日本の財政に余裕が有ったこともあり、戦費分に少し足した金額と幾ばくかの要求だった。弱体化したとは言え、すぐそばの大国の心証を悪化させることは将来的に見て良くないと思われた。
日本がヨーロッパ諸国に伍する国であると示す上でも、重要なことに思えた。しかし、かかった経費の要求まで容赦する気も無かった。
賠償金の他の要求は
1.台湾が正式に金銭で譲渡された日本の土地であると世界に宣言すること。
清からすれば屈辱以外の何物でも無かった。
しかし、当時、皇帝が捺した玉璽が有る書類が日本に保管されている。
認めるしか無かった。
2.清は、朝鮮半島の管理を今まで以上にしっかりとすること。
これは内密に要請した。内密に日本に接触してくる半島勢力が有った。
日本は南天と米州で大変であり、朝鮮半島の面倒を見る気など無かった。
属国の手綱を引き締めてくれ。
3.清が領土と主張出来るのは、沿岸50海里までとする。
これは、台湾以外の離島を領土と主張されないために必要だった。
細々とした条件もあったが、大きな条件はこの三点だった。
清は渋ったが、賠償金の減額を条件に認めさせた。下関条約である。
合衆国がカリブ海辺りで何かやっているが、アメリカ南西協約の効果か、騒ぎにすることは無かった。代わりに南アメリカに手を出し始めた。これを南アメリカ各地で問題とした。特に手薄なブラジルで活動が活発になっている。
ポルトガルがアメリカ南西協約に参加した。合衆国の遣り口は見ている。次は我が身であった。とても対抗出来る力は無い。であるならば、対抗出来る勢力に助けて貰う。
合衆国は、南アメリカ各地で相手にされなくなっていく。自分たちが散々やってきたことなのだが、やられるのは嫌なのだ。
もう、合衆国が海外で手に出来る場所は無かった。遅すぎる帝国主義だった。そして、国内で邪魔者を排除して利用出来る土地を増やそうとした。
先住民族の排除である。
合衆国の内政問題であり、各国とも非難するもののそこまでだった。また、各国ともアメリカ先住民がどうなろうと知った事では無いが本音だった。一部で人道上の問題を叫んだのみである。
困ったのは、日本(米州)とスペインとイギリス(カナダ)で有った。地続きで国境が接しているのである。避難してきた先住民族を保護することになる。国内に先住民族が多数おり、避難民の排除は国内問題になってしまう。ただ、保護はするが、合衆国への越境攻撃はさせなかった。煙くらいなら我慢出来るが、火の粉以上は勘弁だった。
カナダもアメリカ南西協約に加盟した。
ロシアが清と結んだ不平等条約により、朝鮮半島の日本海側一部が租借されていた。北緯38度までの海岸から20キロで有る。ロシアとしては満州を突っ切り遼東半島に出る道が欲しかったので有るが、次善として良しとした。期限が来ても返す気などないしな。
念願の完全な不凍港である。黒海にも有るが出口が狭すぎる上に出口はトルコ国内だった。ここなら誰にも縛られない不凍港だ。ロシアの大地からは、かなり遠いが。極東への影響力を高めるためにシベリア鉄道の延伸を行い、朝鮮半島江原に一大拠点を築きあげている。勿論主要拠点はウラジオストクだったが、冬期には凍結して一部航路しか使えない。氷の影響を全く受けない港は重要で有る。今の所、港としての規模は小さいが重要地点になっている。
日本として、下関条約の2項に抵触するのでは無いかと清に問い質すが、李氏朝鮮が日本に影響を及ぼしているわけでは無いとして、取り合わなかった。
ロシアはさらに清への圧力を高める。清は中原を護るのに忙しく、半島の事はおざなりになっていた。
半島で反乱が続発する。これがロシアには都合良かった。遂にロシア租借地域でも反乱が発生した。そして、何故か租借地の外に逃がすのである。これを追って、遂に租借地の外へ軍事力を展開した。
38度線から北の東半分が、事実上ロシアの支配下になってしまった。
日本としては隣接地でこれ以上ロシアの脅威が増すのを良しとしなかった。ロシアに租借地内に戻るよう、複数国と共同で申し入れるがロシアはこれを不服とした。
日本。反乱の続発は、下関条約の2項が守られていないとして抗議する。清の返答は、なんと言うこ事か。事も有ろうに、もう半島に及ぼせる軍事力が無いと返答をしてきた。
日本の弱腰と見て取ったロシアがさらに強行的に出る。半島南下を始めた。李氏朝鮮に力無く、清にも止める力は無かった。
そして事件が起こる。朝鮮半島からの脱出者を見張っていた日本公用船に、ロシア海軍艦艇が発砲した。ロシア海軍艦艇に対して民間船に発砲を止めるように信号を送ったのが、ロシア海軍側は発砲され反撃したのみと言い張る。旗旒信号も同時に揚げていたが見ていないと言い張る。
平行線を辿ったまま、両国間で緊張が高まる。
次は日本だった。不審な行動を取る貨物船を臨検したのだ。乗り込んでから分かったのだが、ロシア船籍であった。旗も揚げていないので臨検する条件は整っていた。
この貨物船を拿捕し日本に連行した。発砲事件と拿捕事件は双方譲らず。他にも問題が起こり、こじれまくる。
遂に、両国とも大使を引き上げた。
日露戦争の始まりである。
日本が清に過大な要求をしていないので、三国干渉は発生しませんでした。ロシアが旅順を手に入れる事が無かったのです。
代わりにロシア単独で圧力を掛け半島を少し。
次回更新は、できるだけ早くしたいです。