南天航路
歴史的流れのダイジェスト。
多少前後します。
地名は、現在の物を使っています。
上げて一時間半。既に一回目の誤字修正。
1328年
漂着
1448年
ルソン到着
1448年夏
博多到着
1449年春
京 到着 南天と命名 子孫が二条家縁戚と判明。従五位を賜る。
子孫、特例で南天国司に。
1450年
南天 帰還 倭寇ども幕府水軍から雇われる
1450年以降
室町幕府 南天測地開始 完了した所から褒美の地に。
砂金も子孫から聞き、話し合いのうえでかなりの割合を確保。
いいのかと聞くと、彼らにはあまり使い道が無かったので問題ないと。
褒美の地として一族郎党が移住。領民も連れてだが小規模。
倭寇ども、海運と護衛に活躍。以前の行状がばれるが、酌量される。
代わりに幕府水軍に本格的に組み込まれる。結構いい地位を貰った。
この頃より、幕府水軍では無く日本水軍を名乗り始める。
日本水軍、菊の御紋章を許可される。
小規模な砂金がいくつか発見される。移住希望者が増える。
報償を出す資金と褒美の地があるため、土地争いが減ると期待されている。
南天の権利・役得を巡って「応仁の乱」起こる。規模は小さく、すぐに収まる。
その中で、二条本家が南天を我が物にと画策するが、失敗。本家滅ぶ。
南天で砂金を大量に発見 朝廷と幕府、財源が増え、余裕が出来る。
各地で小競り合いはあるが、概ね安定。
これは、朝廷・幕府に褒美を出す余裕が出来たために、褒美を貰う機会を失いたくないがためだ。
将軍、幕府の構造改革をしようとするが、抵抗が激しい。
南天で巨木を使った造船が盛んになる。
外洋船が増え、日本との往来が増える。移住者も増える。
移住費用は砂金を元手に幕府が負担。情報の早い西国では移民増える。
西国では一人当たりの農地が増え、牛馬を使う事で農民に余裕が出来る。
土地争いの少ない西国と激しい土地争いの東国で、経済格差酷くなる。
これは、南天貿易がどうしても博多・摂津が中心のため、西国勢が有利なことも一因であった。
幕府・朝廷とも東国に移民や褒美として南天移住を勧めるが、
土地にしがみつく傾向が強く上手くいかない。
東国では、情報不足と認識の違いによって焦りと怒りが広まる。
特に関八州で酷い。土地を離れたくないが土地を褒美にとわがまま。
逆に奥州では、厳しい環境に進んで移民や褒美をもらい受ける傾向にある。
相模国で北条早雲が台頭する。西国勢は北条支援をして盾とする。
甲斐国にも西国勢が支援を始め、関八州が西を目指せないように画策する。
幕府、増えた外洋船を使い奥州勢に北方探索を命じる。
勿論技術支援と資金援助を付ける。
同様に東海勢に八丈島より南の探索を命じる。
関八州は古河公方を旗頭に何かと幕府に反抗するので、支援も減るし仕事分担もさせられない。自分で首を絞めている。
探索の成果として、
北では、ほぼ無人の小さな島の連続帯を発見。千島列島と名付けられた。
蝦夷地の北にある樺太が島であることを確認。
南では、先住民がいる諸島を発見。巨大石貨文明に驚く。
南小笠原諸島と名付けられた。
北方探索はその厳しい気象条件により犠牲も多く幕府もいろいろ気を遣う。
両地とも日本に組み入れるべく工作を行う。
千島列島は簡単であった。ほぼ旗を立てただけである。
樺太は蝦夷地同様難しい地である。
今も懐柔を中心とした工作が行われている。
蝦夷地も強硬政策を改め懐柔を中心とし始めた。
南の場合、タオタオ・タノと自称する先住民とは交流を中心としている。
当初諍いもあったが、お互いの武を示すことで収まった。
今はいい感触である。
樺太から見える対岸が黒竜江河口で有る事を知り
明との間で国境策定交渉を始める。
明中央は余りの僻地に知識もわずかで、交渉は難航する。
南天でも周辺探索を開始する。
南東に大きな島を発見。マオリ人が住んでおり、マオリと名付ける。
北がマオリ北島、南がマオリ南島。
やはり、お互いの武を示すことで諍いは収まる。
南天の支所を置かせて貰った。
継続されている北方探索で千島列島より北に有る陸地を探索。
過酷な気象条件により、夏の間だけの探索で有った。
アイヌが居住しており、日本にしていいか懐柔中。
便宜的に勘察加と名付ける。
北に向かうと、また違う民族がおり戸惑う。
東にも陸地が有る事を知り、勘察加から東を目指す。
夏期間だけで有り、探索は進まず。
間宮 為矩を首班とする探索隊が海岸沿いを東へと進み、対岸を発見する。
流れがきつく海峡であると判断した探索隊はこの事を京に報告。
自分たちは海峡を渡るのであった。
後に間宮海峡と名付けられる。
海峡を渡り海岸沿いに進むと東へ向かう事となった。
取り敢えずそのまま進む事にした。
やがて陸地は途切れる。しかし島が見える。
西へ行けば勘察加に行けるのではと考え随伴の船で島伝いに東へ進む。
勘察加に戻ったのである。「ありゃ、一周じゃん」と誰かが言った。
それが訛り、後にアリューシャン列島と呼ばれる。
勘察加の対岸に有った土地は、森林以外に見るべき物は無くスカの地とされた。
「ありゃ。スカだった」と誰かが言った。後に訛り、アラスカとなる。
以降、さらに南下を続け、寒い土地から暖かい土地、
やがては暑い土地まで達した。しかし、既に限界まで探索線は延びきっており、
暑い土地は足跡を記しただけにされた。
暖かい土地は、米を作れる可能性があった。米州と名付ける。
日本人にはそれで十分である。奥州勢を中心とした移民が始まる。
しかし、航路を使える期間が短く、少数の時代が続く。
南小笠原諸島からさらに南下して、巨大礁湖を発見。南海島と安易に名付ける。
さらに南下。いくつかの島を発見。そして南天の船と邂逅する。
南天東航路開設さる。
目印は少なく補給箇所も限られるが、大型船であれば問題は無い。
航法さえ間違えなければ、最短距離の航路である。
嵐が多く拠点間の距離もあり、中小型船には向かない。
この航路の開設により、東国勢にも貿易の機会が増える。
江戸湾や気仙沼はよい港になる条件を持っていた。
南小笠原諸島にマゼラン来訪。日本の旗を見て驚く。
それは、黄金の国ジパングの印だったから。
略奪する気満々であったが、日本側戦力を見て意気消沈する。
南天航路の重要中継地点である。防備は固められている。
きっちり対価を支払わせて、補給をしてやった。
対話は困難であったが、なんとかした。
世界一周をしていると聞き、日本に招待。
マゼランは日本からルソンへの航路が有る事を知り、夢が終わったことを知る。
同時に、自分が考えた世界1周が可能で有る事の検証がされ喜ぶ。
米州でスペイン人と接触。
奥州勢が米を作るための開墾に精を出しているところへ、接触を受ける。こちらを現地先住民と思ったようで、ここはスペインだと宣言する。それに怒った奥州勢と開戦。
初めて見る鉄砲に混乱の極み。一時押し込まれるが、遊撃戦を展開。
スペイン人を排除する。人数の差で勝った。相当数の首を取る。
鉄砲は日本に送られるが、責任者である南部が自分の物とするために隠す。
南部鉄を使っての独自開発を試みるも、上手くいかず。
その後、しばらくは来なかったが、度々来るようになり戦闘もかなり発生。やがて来なくなる。
ポルトガル人、種子島に漂着。鉄砲伝来。
瞬く間に模倣。南部、これを知り愕然とする。米州でも知り、南部の責任が問われる。南部当主、切腹。
祖国よりも多くなった鉄砲にポルトガル人おののく。
しかし、日本国内では火薬が大量に生産できず、ポルトガル人や明の商人達は、火薬原料と火薬その物の火薬貿易で笑う。
キリシタン伝来も根付かず。
植民地化の第一歩で有る土地や人を神に捧げろというのは、豊かになりつつある日本と相容れず。
スペイン人が奴隷購入を持ちかけるが、奴隷にするような人間はいないので成立せず。他国への奴隷にするなら、自分の所で働かせる。
スペイン人は危険として認識される。
ポルトガル人は奴隷貿易よりも通常の貿易の方が儲かるとして、日本からの奴隷貿易は行わなかった。
ルソンでスペインと局地戦。
ルソンを支配下に置きたいスペインと
南天航路で未だに重要な中継地であるルソンを他国に支配されたくない日本。
日本が勝利。本国からの近さと、多数の鉄砲による圧倒的な火力で勝利した。
ひょっとしたら、ヨーロッパ全部と同じくらいの鉄砲を持っていた可能性も。
スペイン。米州の事や奴隷交易で嫌われた事も有り日本を不倶戴天の敵とする。
トルデシリャス条約を知り、日本激怒。
貿易で儲けているポルトガル人らが必死になだめる。
本国に日本を除外するよう働きかけ、教皇まで巻き込んだ大論争になる。
ポルトガルは危うく破門されそうになるが、日本からの金で黙らせる。
ポルトガル。スペインと仲が悪くなる。戦力ではスペインが圧倒しており、スペイン以外の勢力を味方に付けようとする。
日本。この頃、海外と日本の金銀交換比率の差を知り、愕然とする。
以降、海外と同程度の交換比率に持って行く。しかし国内では難航。
その際に最後の一稼ぎと貿易商らが荒稼ぎする。
幕府。朝廷に諮り、国内統一通貨の発行を目論むも上手くいかず。
金銀交換比率の差と、各種の銭が邪魔をしているようだ。
しかし、幕府にしては珍しく、めげること無く遂行する。
この事業には十数年掛かった。
後年、朝廷と幕府が一番評価されたのが
この通貨事業と南天と米州を無事日本領域としたことである。
でなければ、国内から大量に金が流出したであろうし、国内での主導権争いは酷くなっていただろう。
日本。マゼランのことを思い出し米州との航路をアリューシャン航路以外に無いか探す事にする。
南小笠原諸島を起点に、東へと乗り出す。ハワイ発見。
樺太を巡る国境線の策定が終わった。明と日本の国境が画定した。
明と樺太の間の海峡は、黒竜江河口にちなんで黒竜海峡と名付けられた。
国境は黒龍海峡の中間点から真北付近にある川とされた。明も日本も人を派遣したが、余りにも寒く人も少ない。耕作も出来ないような土地が延々と続くのである。高い価値は認められなかった。
しかし、大国明のプライドもあり、明が支配する土地と勝手に明が決めた。現地の人は何それ知らない。である。何もしないからと言って、認めさせた。何か有ったときは、力になるからと言って。明も税の取り立てなどは逆に持ち出し同然だったので、ただ明の石碑を建てただけだった。日本も同様である。
スペインはメキシコ平定の後、北進を始める。相手が日本だと分かったのである。ルソンの恨みを晴らすべく進軍した。海路だと撃退されるので、大勢を送る事が出来る陸路で進んだ。ここで再び、激突する。
日本は海側を警戒していたが、ほぼ無警戒の陸側から来られ混乱する。お互いに大戦力という訳でも無いので、一進一退であった。やがて、疲れた両軍は停戦をする。そして国境策定に入るのだった。
アルマダの海戦で敗れたスペインは、日本相手とは言えこんな僻地に大兵力を送る余裕を一時的に失っていたのである。船が無かった。
米州の国境策定であるが、東西南北共、目印となる場所が少なく難航する。
この時期の日本(米州)とスペインはコロラド川を境にして睨み合っており、コロラド川河口に有る小島北側から50キロの所までをスペインとした。その代わり、日本はコロラド川の川筋沿いの西側を日本とした。この川沿いの意味は、本流とした。
これが後でとんでもない事態を引き臆すのだが、上流まで遡った者はお互いにおらず、そんなに大きな川とは思わなかったのである。
海岸沿いに南へ行った半島の帰属も揉めた。双方の旗が立っていたのだ。ただ、乾いた土地であり、金銀も有りそうに無いのでお互いに譲り合うと言う揉め方だった。有用な土地が欲しかったので有る。管理が面倒なだけで、金にならない土地を有する余裕はお互いに無かった。結局、湾内側がスペイン、外洋側が日本となった。
スペインは湾を内海とするために内側を確保した。日本はいらなかったが、渋々了解をした。
コロラド川本流西の河口から50キロで東西に線を引き、北側が日本と決まった。これはスペイン国王と天皇陛下の玉璽が捺された、日本とスペインとの間で交わされた最初の正式な国家間の約定だった。
米州で、スペインと共同でコロラド川を遡る。最初はほぼ北へ向かいスペイン人は平然としていたが、徐々に東へ向かうので焦り始める。源流に届いた頃には唖然としていた。
その源流部に碑を立て、境界から西が日本、東がスペインとした。北へは真北に向けて境界線が走る事になった。
しばらくは平和が続き、日本からは南天へ米州へと人が次々と移住していく。
この頃、日本の対外貿易主力はポルトガルが国自体衰退したためオランダに移っている。
スペインもルソンを手に入れる事が出来ずに、結局、貿易中継地としている。植民地にするのは諦めたようだ。
日本の存在と、イングランドやオランダの台頭によりトルデシリャス条約の有効性が無くなりつつあった。この頃には有名無実な条約となっている。かと言って、日本を占領する事など不可能であった。遠いうえに強大な国を相手にする事は出来なかった。
南天とマオリ島に次々とヨーロッパ人が訪れるが、いずれも日本と知り落胆して帰って行く。
この頃、花吹山と名付けられた火山を持つ島を島津家が領地としている。桜島が懐かしいようだ。その名も南薩摩。
1700年頃。日本の人口は、本国2000万人。南天900万人。米州400万人であった。いつの間にか、世界有数の大国である。この頃、室町幕府から北条幕府へと権力の移動が起こった。これは足利家の血統が薄くなり、直系と言える者がいなくなったために各地で不満が起こり、海外開発とは平行して権力抗争とそれに伴う戦争が起こっている。しかし、海外を気にする余り中途半端であった。50年ほど、抗争が続いた。北条は幕府を江戸へ移転した。相模では狭かったのもある。
清より台湾を買い取った。大量の金銀宝物を対価として清に支払った。清は乾隆帝亡き後、財政難に陥っており、この金で一息付けた。
ロシア、沿海州に進出するも、既に旗は立っており失望する。しかし、それで終わる奴らでは無かった。
米州のある大陸はアメリカと名付けられていた。その東海岸で、ヨーロッパ本国からの独立戦争が始まった。日本、スペインとも静観する。横槍を入れるような力が無いというのもあるし、現状の開発で手一杯である。日本はともかく、スペインは巻き込まれないようにヨーロッパ外交界で逃げまくる。
アメリカ大陸東部13州がアメリカ合衆国として独立する。
米州でスペインとなんとか平和を保っているところへ、合衆国人現る。東から来たらしい。奴らはおかしい。ここは神に祝福された土地だから俺たちの物で、お前達は出て行けと言う。スペイン人と共に頭を抱えた。
合衆国人と戦端が開かれた。やりたいわけでは無い。奴らが襲ってくるのだ。スペインと共に防衛戦争となる。不倶戴天の敵とされた日本との共闘である。スペインはどう思っただろうか。それに先住民が混じり混沌とする。
数年間に渡る抗争で、お互いに疲れて戦乱は終わった。スペインは国力を大きく減らしたらしい。日本も米州への加勢は大変な労力を要するもので有り、疲弊したがスペインほどでは無かった。
ヨーロッパでナポレオン旋風が吹き荒れるが、スペインは巻き込まれないように再び逃げまくる。
イギリスで産業革命起こる。
日本勢力圏に蒸気船が現れるようになり、気になる。
幕府、大枚をはたいて蒸気船購入。しばしの運用後、研究材料とする。
変態職人、頑張った。数年後には同じように動く物ができあがる。あくまでも同じようにであって、同じでは無い。相当劣るが、まず第一歩を踏み出した。
スペイン、ますます斜陽となる。南米を残すか、メキシコ湾周辺を取るか迷う。既にアジアでは権利を売ってしまった。それでも、過去の清算が出来ない。
迷ったが、メキシコ湾周辺を取った。南米は広すぎた。もうスペインの国力では開発も出来ない。ヨーロッパ諸国に南米のカリブ海沿岸地帯を残し、他の権利を売った。メキシコからコロンビア、ベネズエラまでを残して大陸の権利は売った。これで過去の清算も済み、管理の手間も掛からなくなったため国力を取り戻す。
この頃には敵の敵は味方理論で、日本とスペインは対合衆国で共同歩調を取る。
ロシア、度々清と衝突する。清は徐々に押される。日本は傍観する。大国清のプライドがあり、日本には助けを求めてこなかった。
続きは12月になってからです。しばらく間が開きます。