南へ
彼らの辿った困難は、御仏が試されたに違いない。
設定は、あり得ない設定です。
「こんな現実は無い」と言わないで。
横須賀軍港の大型艦用埠頭に繋がれた二隻の戦艦。
世界を震撼させた巨大戦艦の三番艦、四番艦であった。
信濃と甲斐。まだ実戦に出たことは無い。
一番艦大和は呉に、二番艦武蔵は佐世保にいる。五番艦紀伊は遙か南。六番艦近江は遙か東。
いずれも静かに日本を護っている。
その船は運が悪かった。
大和へ帰る帰路であったので、行きは良かったのだが。
いや、有る意味幸運だったも知れない。当時の船で良く構造が持ったものだ。奇跡というのは有るのだろう。
かの船はいかなる運命の悪戯か、季節外れの野分による強烈な北西の風により航路を大きく外れ流されてしまった。
帆柱は倒れたが、幸いなことに水樽と食料がやられなかった事が生存に繋がった。
彼等乗り組の者達には今どこにいるのか分からなかった。指南魚は動いているが、どれだけ流されたのか?方位は分かっても、それだけだった。
更に複数の、今で言う大型熱帯性低気圧の巻き起こす強い北西風に乗り海流を物ともせずに南へと流された。
流れ着いた場所は今で言うフィリピンの遙か東だった。
周りに陸地は見えず、絶望するしか無い面々。ただ暑いので相当南へ流されたことは理解出来た。理解出来ても解決出来るとは限らないが。
帰りたかった。あるいは陸地ならどこでも良かった。
だが、運命はどこまでも過酷だった。北赤道反流に乗りどんどん東へと運ばれていく。
水は時折降る雨を溜めて凌いだ。だが100人以上乗っているのだ。足りない。食料は魚を釣ることで補充出来た。もっとも、たまにしか釣れないので全員分は無い。徐々に痩せ衰えていく乗員乗客。
遂に死者が出た。弔うことは出来た。何しろ乗客に僧が多く居た。厳かに水葬とした。
その後も死者は増え続ける。
遂に…
生存のためには何でもした。我が儘で尊大な、僧さえも含む何人かがいつの間にか船から消えていることもあった。
僧の記録には「御仏に許されるのだろうか」という記述が有る。
そしてまた嵐だった。どんどん南へ流されていく。
僧の記録には、試練であるとか、いろいろ記載されている。
やがて漂着したのは大きな島であった。御仏の招きかと、かの場所は[仏里須勉]と名付けられた。
生きていたのは60人だった。
時に西暦1328年だった。オランダ人に先立つこと380年である。
生き残った60人は、今後の方針で概ね一致を見た。
大和(日本)に帰ること
ただそれだけであった。
それだけであったが、問題は山積み以上だった。
まず、ここがどこだか分からない。相当南であることは分かるがそれ以上はなにも分からない。星さえも見たことの無い夜空だ。
そして、食料だった。幸い水は豊富だ。木材も問題ない。簡易な罠を作って魚を捕って当面は凌ぐ事になった。問題は植物だ。食べられるのか区別が付かない。漆のように酷くかぶれる物があるかも知れない。
未知の地であった。
一行が幸いだったのは、当時の知識層である僧が20名ほど生き残っていたことだ。僧は一行の頭脳として活動していくことになる。
物資においても、元で仕入れた白磁・青磁や絹などの高級織物。食用植物や有用植物の種子などがあった。武器においても自衛用に槍や刀、弓も一揃えあった。
ある程度生活が安定すると、帰還に向けてどうすればいいかを考えるようになった。
船は作ることが出来るのか?
無理で有った。船の保守が出来るくらいの腕を持った船大工はいたが、彼は作るなんて今の態勢では無理と言う。人も足りない。道具も足りない。材料も足りない。ないない尽くしだった。
では、歩いて帰るのか?
ここが天竺のように唐と地続き出あれば帰ることが叶うかも知れない。でも、ここはどこだ。いたずらに歩いてもどこに行くか分からない。まず、この地がどこか知ることから始めなければ。
考えれば考えるほど、泥沼には待っていく気がした。
やがて、今の生では無理だろうと思い始めた。ではどうする?
子孫を作って託せば良い。
だが子孫はどうするのだ。
男ばかりだぞ。
最近交流を始めた現地人の女を貰おう。
議論は白熱する。
女だ。
ずいぶんいたしていない。
理性を失わせるには十分な動機だ。
積極的な交流が始まった。女目当てで。子孫に託すという名目があるのでおおっぴらに活動をする。
そのおかげか、40人ほどの現地人と夫婦になった。残りの20人は年寄りと何らかの理由で拒む者だった。
子孫が生まれた。
その一方で僧や船乗りでも指揮を執るような知識のある人間は、将来に向けて自分達の持つ知識を木簡に書き写す作業を始めた。彼等は生涯にわたってこの仕事を続けていく。
また、この木簡を書き写す事の重要性を子供達に教えていく。写経である。これにより知識は失われること無く子供達に受け継がれていく。完全なわけでは無かったが。
漂着して10年が経っていた。
50年後。日本人(日系人)は1000人まで増えていた。日本人はもう全て墓の中だ。
こんなに増えたのは、持っていた食用植物の種子を増やすことに成功したからだ。安定した農業は人口増大に繋がる。綿花も種子にあり、綿織物の生産も始まっていた。
知識も木簡と口伝で伝えられている。
彼等にはくどいほど帰還事業が言い伝えられていた。もはや宗教か生きるための目的である。
その頃、この地が周りを海に囲まれた地であることを知る。1周したのだった。10年前から始まっていた。中継点を作り物資を積み上げ、徐々に前進していった。結果、元のところに戻ってきた。
この行動で日系人は全島に拠点を築き上げたのであった。
帰還方法の一つ、徒歩で帰るは無くなった。
では海を渡るしか無い。
船は小型の物を何とか作れるようになっていた。だがこんな10人程度しか乗れない小型では海を渡るのは無理だろう。
大型船の構造は分かる。木簡に記されているからだ。しかし設備が無い。道具も不十分だ。更に構造は分かってもどうやって作るのか書かれていなかった。船大工の知識はそこまでの物は無かった。小型船の製造工程を知っていただけでも奇跡であった。
道具さえも形は模型があったが現物は無く、鉄の精錬や鍛え方も中途半端にしか載っていない。当時、鉄の精錬は秘中の秘であり知っていることの方が驚きなのだが。
滑らかな刃物には必須の砥石も無く、似たような石を使うしか無かった。漂着した船の砥石は見本として大事にされ使用は厳禁であった。
50人乗りの大型船が作れるようになるまで更に50年が掛かった。人口は1万人に増えている。仏里須勉だけでは無く東海岸に広く散らばっていた。
漂着後、120年経った。遂に海を越える決意をする。
選ばれた屈強な若者と十分な知識を持った者が50人海へ出た。北には大きな陸地がある。まず陸地伝いに西へ行くことにした。
木簡に東へ流されたと記されていたからだ。
島伝いに西へと進む。現地で誰かに出会っても言葉も分からずに身振り手振りで何とかしようとした。だが、海賊には通用しなかった。
戦いだ。残っている数少ない先祖伝来の槍と刀が活躍した。犠牲も出たが撃退出来た。
ここで帰るか、このまま探索を続けるか。しばらく悩んだ。
進むことにした。
ダバオに辿り着いたのは3ヶ月後である。
言葉が分からない中、何とか人の多いところ(ルソン)を教えて貰うことに成功。食料や水を補給しルソンに向かう。
迷いながらもルソンに辿り着いた。
ここでも大和のことは知らないと言う。
まだ、路銀もあれば精神的な限界は来ていない。更に北上する事にした。北の島で聞けば分かるかも知れないと考えたからだ。
ルソン出港後、4日後に高雄到着。
ここで遂に大和のことを知っているという人間に出会った。ただ、相当にうさんくさそうだ。皆警戒をする。
そして日本人との邂逅をした。
高雄で会った日本人との会話は難航した。アボリジニ訛りの日本語である。一応、代々言語教育はされているので喋ることも読み書きも出来る。ただ、時間が経ちすぎた。現地人との交流によって訛りがきつくなった。読み書きはともかく会話が問題だった。
だが、その日本人は考えていた。此奴らはどうやら昔消息を絶った船の子孫らしい。此奴らを朝廷や幕府に届ければかなりの褒美が期待出来るんでは無いか。また、此奴らが持っている金粒にも関心があった。もしや砂金なのか。儲け話だ。此奴らをここで襲うよりもずっと大きい儲けだ。
手下には「襲うな。襲うよりも、もっと儲けられる。しかも安全にな」と話す。
そう言うと当然楽な方を選ぶ。彼等はここで消え去ること無く日本に向かうのだった。
その日本人は倭寇だった。しかも普通に密貿易だけやっている方では無く危険な方の。
そして1448年 文安五年の七月。
遂に博多に辿り着いた。
足利八代将軍足利義成の時代だった。後の義政である。
わずか十三歳の将軍はその報に驚き対応を取ることが出来なかった。幕臣や近習、母などの意見が割れたからだ。
後花園天皇も同様で、朝廷も大いに狼狽えるのだった。
朝廷・幕府とも大いに戸惑った。
彼等は方針が決まるまで半年もの間博多に留め置かれた。
朝廷はまず、彼らの身分を問題にした。おそらくは高僧の子孫である。しかし、地下人ですら無い。
反論も当然ある。当時の船には殿上人も少なからず乗っていたはずだ。子孫かも知れないでは無いか。
持っているだろう印の確認と言うことすら思い出せずに争っていた。そのうち誰かが思い出すのだろうけれど。
誰かが、言った。それなら証拠を見に行けばいいでは無いか。
そうだとしても誰が行くのか。もし、殿上人では無く人地下人であっても子孫であれば手柄になる。彼らは広大な土地を見つけたと言うことだ。
そして、誰が行くのか、また争いになった。
幕府は、自分たちの幕府が開かれる前のことを言われても困るだけだった。ただ、広い土地と言うことに関心があるだけだった。
真剣なのは僧たちだった。誰の子孫なのか。どこで仏の教えを広げているのだろうか。未知の土地と多くの人々。それだけでも行く価値はあると考えた。
有る意味、僧たちが一番まともな考えを持っていた。
朝廷、幕府、僧、三者の代表が博多で彼らと面談した。
驚いたことに(聞いていた情報通りなのだが)なんとか日本語と言える言葉を話した。なるほど日本人の子孫であろう。
朝廷の役人は驚いた。五摂家の一家である二条家に連なる子孫であることが、判明したからだ。証拠は短刀だった。そこにはしっかりと刻まれていた。また、彼らの持っている印も二条家に連なる物であることを示していた。印は大切にされていたが痛みが有り、周辺部ははっきりしなかった。しかし、中央部にしっかりと分かる部分が有った。
南北朝の頃の混乱で正確な記録が無くなっているが、もしこれが事実であれば唐に行くような役人は地下人であり、日本帰国後に殿上人になっていた可能性もある。
役人は使者を都に送り、至急古い記録をひっくり返すのだった。
幕府は広い土地のことをもっぱら聞いた。一周するのに何年もかかるとか、びっくりで有る。荒野や砂地が多いと言っても、それでも人が住めるところは多そうだった。褒美に困る幕府・将軍は、ここを褒美に出来ないか考えるようになる。
僧は彼らとの出会いに期待することが有った。どうなっているのか聞きたかった。
曹洞宗と臨済宗、双方の僧が子孫を作り双方とも信者は多い(日系人限定)と聞き、より深められた教えを説きに行くべきか悩むのだった。
三者がこの離れた地に是が非でも行くべきだと決定づけたのは、彼らの着ている服で有った。綿で有る。大量に育てられていると聞き、これなら明より高い綿織物を仕入れなくてもすむのでは無いかと考える。
決定打は金粒だった。彼らは実に二貫目(約7.5kg)もの金粒を持っていたのである。実はさらに五貫目隠していたのであるが。
特別にお目通りが叶うことになった。
こうなると幕府も将軍との謁見を差配することとなる。
僧たちはもし行くとしたら、どの宗派から出すのか。どこの寺が出すのか。誰が行くのか。大騒ぎになった。
その間、案内した倭寇はどうせだからとしばらく休業して、こいつらを見てやろうと付きまとった。
倭寇とか知らない子孫達は、親切な人がいるくらいにしか思わずに金粒を申し訳ないと分けるのだった。
倭寇の笑顔が引きつりかける。
こいつら、お人好しすぎないか。でかい儲けの種だ。護ってやって、あとからおいしい思いをしよう。
そう思った彼らは、護衛まがいのことを始めた。蓄えはある。どうやって得たかはともかく、貿易に使う金だ。何年かはあの仕事(海賊)をしなくても喰っていける。
そうこうしているうちに、彼ら子孫は昇殿し拝謁。そして将軍との謁見と次々とこなした。彼らからすれば、しきたりなどが分からずに右往左往しているうちに終わってしまった。
驚いたことに、二条家の子孫は従五位の位を授けられてしまった。これには皆驚いた。特に二条家の者には青天の霹靂である。本家からすればどこの誰だか知らない切れてしまった縁である。本家は関係性を考えて苦悩する。
しかも役職付きであった。南天国司として南天を差配することを期待された。
彼らの地は朝廷によって「南天」と名付けられたのだった。
慣例によると地元出身者を避けることになっているが、当地を知る者が誰もおらず、いきなりこの地は日本の支配下になったと言われても困るだろうという配慮からだった。
こうなると幕府も動かねばならない。新たに国が出来たのである。かなり遠い上に実態が分からないが。それでも守護を派遣しなければいけなくなった。
どこの家から守護を出すのか。揉めた。なにしろ、上手くいけばかなりおいしい思いが出来るのである。刃傷沙汰まではいかないが、足の引っ張り合いは連日のように行われた。
僧は僧で連日のように誰が派遣されるかで意見の衝突が起きていた。
そして一年が経った。それほどに混乱と期待が入り交じった闘争が行われたのである。船の用意にも時間が掛かった。
帰る船と、幕府や朝廷の派遣する船が四杯。五隻の船団である。
倭寇達は、ちゃっかりといつの間にか雇われだが幕府水軍として収まっていた。これで安泰である。儲けは少ないかも知れないが権力側になった。安全性は抜群である。
子孫達が彼らと同じ航海なら安心できるとか言ったためである。幕府に遠洋水軍が無いのも一因だった。
後の日本海軍の祖が誕生した。
里帰りから100年後。
南天は多くの日本人で賑わっている。
最初は年1回の往復が限界だった。それでも都合4便を年間出している。つまり別々の船団が四つ。
次第に多くなり、今では月に2便、日本航路が設定されている。
航路は日本側が摂津と博多からだった。南天側は仏里須勉だ。最近は仏里須勉だけで無く、西海岸の羽津にも大きな港が作られ、寄港する船も居る。
元からいた日系人と移住してきた日本人を合わせて80万人にも達する。これは幕府がようやく測地を終え、直轄地として褒美に分け与えたからだ。褒美を分け与えられた者達は複雑な気持ちで移住していった。
ただ日本国内での土地争いは減っていく。
先住民族は数が減った。疫病である。日本人や日系人は平気か軽い症状で住むが、彼らは訳も分からないうちに重症化する。
現代であれば免疫と分かるのだが、当時そんな知識は無くただ絶望があった。ただ、先住民族も次第に重症化することは減り、人口は再び増えているようである。これは、人口を調べては居ないが交流する先住民族の人数が増えていることからの憶測だ。
すでに南天を一周するように拠点は作られ、少なくない船が行き交う。
産業は綿花産業が栄え、誰も手をつけてこなかった巨木を中心とした造船業が日本よりも盛んになっている。米も作られている。
重要な国家機密は金銀銅鉱山だった。当時、日本の金銀は輸出されるほど有った。有ったが、より多い方がいいのは誰でも同じだろう。鉱山は朝廷と幕府により、直轄地とされた。厳重な警備が敷かれた。
200年後、人口は800万人を超えた。急速に先住民との混血が進んでいる。この800万人の内、移住者で純血日本人は30万人に過ぎない。
中には純血日本人こそエラいのだと喚く者もいたが、現地では白い目で見られた。幕府の役人からもだ。人口比を考えれば圧倒的に不利であり、統治上、逆に問題視した。
現地で一番の上級者が、かっての漂着民の子孫で混血である。また、彼らが居なければ日本はこの地を手に入れることが出来なかった。今日の繁栄はこの地をもたらしてくれた彼らの御蔭だ。朝廷や幕府はこの地を大切にしている。
勿論、武力で制圧を訴える者はいた。ただ、南天の人口と日本からの距離を考えると、収支が合わないと考えるのが現実的だった。それに、こちらに従ってくれる者を態々制圧するのはただの愚か者であると。こう言う考え方が主流だった。
また朝廷はそれを禁じていた。平安の栄華とは言わないが、今の安寧をもたらしてくれた者達を大事にして、これからも安寧を続けるために。
そういう意味でも、純血を叫ぶ者は逆に圧迫を受けた。日本に帰る者も少なくない。こんな筈では無かったと。
次回は、本日20時。
四話で終わりますが、二話は遅刻です。12月になってからです。
どうしようか迷っていましたが、投稿。文自体は11月初めには出来ていましたが、書き換えが始まりこの事態に。
架空戦記創作大会2021秋 トリを飾れ・・・無いよね。