墓参り
車窓の景色が緩やかに流れる。車長が次の停車駅の名を告げた。そろそろ目的地の駅が近いようだ。列車が動きを止めたのを確認し、席を立つ。ドアの前に立つと、ちょうど扉が開いた。
涼しい車内に、生暖かい空気が流れ込んで、隆志は思わず顔をしかめた。外は相当暑いようだ。隆志は覚悟を決め、駅のホームへ降り立った。
ドアから出ると、湿気を含んだ蒸し暑い空気が全身を覆った。お盆明けだというのに、今だ夏の気配が衰えない。
日差しがレールに反射し、瞳へ真っ直ぐ飛び込んでくる。あまりの眩さに隆志は目を細めた。手でひさしをつくり、安寧を求めて日陰へ移動した。幾分か暑さはましになった。が、肌にまとわりつく外気は相変わらずだった。
冷えた飲み物を買おうと、自販機へ向かう。昼下がりのためか、残っているのは美味しくないと評判の炭酸飲料。それ以外は、どのボタンも真っ赤な「売り切れ」の文字が点灯していた。
涼しさには代えられないと、唯一残った緑のボタンを押す。がこんという音と同時に、緑のボタンは赤色に変わった。
自販機のポケットから炭酸を取り出すと、生暖かい風が髪を揺らす。振り返ると、電車が次の駅に向かうために動き出したようだった。
列車を見送りつつ、隆志は日陰のベンチに腰掛けた。リュックで背中が蒸れ、Tシャツの生地がべたりと皮膚に張り付く。生地がじっとりと汗を含み、気持ちが悪い。服を仰ぎながら、気持ち悪さを外へ逃す。
冷えた缶を首筋に当てると、いくらか暑さが軽減された気がした。ふーっと口から長い息を吐き、体の熱を外へ押しやった。こんなに暑いなら家から水筒でも持ってくるべきだったか。
涼んだところで、隆志はリュックから古びた写真とスマートフォンを取り出す。写真には子どもを抱えた、笑顔の若い女性。その腕の中で、子はすやすやと寝息を立てている。
写真を裏返すと、やすらぎの里にて、と文字が書かれている。その文字を頼りに、はるばる都心からこの地へやって来た。
「確か、この辺りだったような」
位置情報アプリを開き、目的地の名前を検索窓に入力する。「やさらぎの里」――山の中にある静かな霊園地だ。
今いる駅から目的の霊園までは、徒歩で二時間ほどの距離であった。歩くにはやや遠い距離だ。
タクシーで移動するか、徒歩で向かうか。正直タクシーを利用したいが、学生の身には高く感じられる。今月の生活費と、便利さを天秤にかけた結果、徒歩で向かうことにした。
隆志は意気込むと、缶の蓋を開け、一気に中身を飲み干した。ジュースにしては妙に薬味が強く、風邪薬のような甘ったるさが舌に残る。
だが、このうだるような暑さの中では、この鮮烈な甘さががおいしく感じられた。さんざんな評判だが、飲むと意外に悪くなかった。缶を回収箱に入れ、ベンチからすっと立ち上がる。
駅を出ると、じりじりと太陽が隆の肌を焼いた。混雑を避け、正午を過ぎた頃にアパートを出た。
画面の端を見ると、時間は午後三時を過ぎていた。今の時間帯でこの暑さなのだから、到着した頃にはさらに増すだろう。霊園につく頃は干からびてミイラにでもなりそうだ。
「よし、頑張るか」
隆志は再度気合を入れなおし、霊園に向かって歩き始めた。
※
緩やかな坂を登り続けて、約二時間。少し開けた場所に出たところで、スマートフォンが振動した。どうやら目的地に着いたようだ。
木々に囲まれた深い山の中に、ひっそりと霊園はあった。カナカナとひぐらしの鳴き声が聞こえる。到着した頃には、空はすっかり朱色に染まっていた。
入口には「やすらぎの里」と彫られた石碑と、ぽつんと円柱型のオブジェが建っている。その横には蛇口があり、墓掃除用のスポンジやバケツが用意されていた。
隆志はふらふらとした足取りで水道に歩み寄ると、勢いよく顔を洗った。外気に熱されたのか、蛇口の水は生温い。だが、汗だくになりながら歩いてきた身にとって、顔が洗えるだけでありがたかった。
※
隆志の両親は父母ともに、物心つく前に亡くなった。両親亡き後は、子どものいない遠縁の家の夫婦に引き取られた。とても親切にしてもらい、実の子供のように育ててもらった。
高校の卒業式を控えた時期に、話しておきたいと、養子であることを聞かされた。
実父は生前売れない写真家で、風景画を中心に撮っていたそうだ。父の写真集も見せてもらった。内容としては日常の素朴な一瞬をとらえたものが多かった。
派手さはなくとも、細やかな色合いや、背景が想像できるような深みのある作品ばかりだった。隆志は一瞬で父の写真の虜になった。
母は父の写真の熱烈なファンで、半ば父の家に押しかけるような形で結婚した。だが、生計の安定しない男と一緒になるなどと、実家から猛反対を食らったらしく、二人で地元を飛び出した。結婚してしばらく、二人の間に新たな命が宿った。慣れない新天地の暮らしだが、寄せる期待は大きかっただろう。
しかし、そんな苦しくも幸せな生活は続かず、父は彼が産まれる前に交通事故で亡くなった。周囲の反対を押し切って結ばれた二人は頼れる身内も少なく、親族とはほぼ絶縁状態であった。母は一人でもやっていこうと必死に働いていたが、幼い子供を抱えての生活は苦しく。日々働きづめだった母は、通勤途中で倒れ、そのまま帰らぬ人となった。
その話の後、1枚の写真を手渡された。手元の写真には、隆志に似た女性。そのか細い腕に抱かれた小さな赤ん坊が映っていた。隆志が赤子の頃、母親と一緒に父の墓前で撮ったものらしい。それを目にした途端、顔も知らない、忘れてしまった生みの親のことを猛烈に知りたいと思った。
二人の墓前へ行きたいなら、いつでも言って欲しいと義両親は言った。しかし、すぐには気持ちの整理がつかず、何も答えることが出来なかった。そして、高校を卒業し、大学生活も落ち着いたころ。
二十歳になるその前に一目両親に会いたいと、ここまで来たのだった。
写真を見るからに、母親に連れられてこられたのは確かなのだが、全く思い出せない。
山の斜面にそって、墓が段々に並んでいる。話によれば、両親の墓は霊園の1番奥にあるらしい。
いくつかの墓前には、みずみずしい花とお線香が備えてあり、何本もの細い白い煙が空に昇って行った。正午もとっくに過ぎた頃合いで、すれ違う人々は、皆階段を降りていく人ばかりであった。皆が家路につく中、隆志は一人逆方向に階段を上って行った。
長い階段を上がりきると、頂上すぐ手前に一本脇道が伸びている。案内脇道は下り坂になっており、横には山の裏手につながっていた。細い半ば獣道のような道を進むと、開けた場所に出た。
アスファルトはひび割れ、隙間から草が芽を出していた。その付近に何基か寂しげに墓石が佇んでいた。手元の写真と見比べると、やや年月は経っているが、よく似た風景である。
恐らくこのあたりに両親の墓があるのだろう。名前と写真を頼りに、両親の墓を探し当てた。親の墓は中央から少し外れた場所にあった。写真を入れようと、リュックをおろしたとき、突風が吹いた。
「あっ」
手の中の写真が風にさらわれる。必死に掴もうとするも、写真はあっという間に茂みの中に消えていった。
「嘘だろ……」
茂みの中をまさぐるが、草が生い茂っていて、探しづらい。周囲を懸命に探したが、一向に見つかる気配がなかった。
しばらく探しているうちに、視界がぼやけ始めた。地面が歪み、倒れこみそうになる。
いつの間にか、照り付ける太陽に体力が削り取られていたようだ。意識がだんだんと朦朧とし、地面と宙の感覚が曖昧になる。写真を探すのに必死で、水分補給を忘れていたのがいけなかった。
「少し……、木陰で休むか」
倒れ込むように、路外の木の下へ腰掛けた。ぐわんぐわんと景色が嵐の船内のように揺れ動く。外はとても暑いのに、身体の芯から寒気がする。震えが止まらない。
前傾姿勢になり、体を温めようとする。その前に、水分を取らなければ。こんな時はどんな風に対処すればよかっただろうか。焦るばかりで、考えがまとまらない。
「あ、あの。大丈夫ですか?」
ふと、頭上から誰かの声。返事をする気力はない。
「これ、飲んでください!」
ぼんやりと頭を上げる。差し出されたのは、青色のラベルが特徴的なスポーツドリンク。
「あ、りがとうございます」
残った力をかき集め、飲料を受け取る。有難いことに、飲み口のキャップは既に開けられていた。スポーツドリンクをゆっくり嚥下する。乾いた大地に雨が染み込むごとく、冷えた水分が身体にしみ渡った。
「今、濡れタオルを持ってきますから。待っててください」
そう言うと、親切な誰かは小走りでどこかに掛けていった。
身体に水分が戻ってきた影響なのか、幾分か体調が戻ってきた。しばらく呆けていると、抱っこ紐を身につけた女性がこちらへやって来る。先程スポーツドリンクをくれた人だ。
「調子はいかがですか…?」
彼女はおずおずと、濡れたタオルを差し出してきた。その反対の腕の中では、赤子がすやすやと寝息を立てていた。
「お陰様で、もうすっかり良くなりました。――すみません。お子さんがいらっしゃるのに……ご迷惑をおかけしました。ありがとうございます」
「まだ油断はできません。どうか安静にしていて下さい」
ぴしゃりと告げられ、固まってしまう。べたん、と頭の上にタオルを乗せられた。彼女の先程の言葉に、否応無く従いたくなる。体調も戻ったばかりであるし、ここは彼女の言う通りにしよう。
タオルは湿っていて、程よい冷気が伝わってくる。ひんやりとして、気持ちいい。
「せめて、飲料の代金だけでも」
「いいんです。ちょうど水を汲みに向かう途中でしたし」
あまりにもお断りされるので、素直に彼女の厚意に甘えることにした。
「水にタオルまでお貸しいただいて。さっきは本当にありがとうございました」
隆志は濡らしたタオルを頭に乗せたまま、お礼を述べた。
「困った人がいたら助けるのは当然の事ですから」
そういうと、彼女は笑顔を見せた。その笑顔を見ていると、自然に心が和らぐような気がした。
休むうちに症状は良くなってきたが、まだ動けそうにない。女性は、そんな隆志にずっと付き添ってくれた。
そんな甲斐甲斐しい彼女の腕では、赤子が安らかに寝息を立てている。彼女は時折腕を優しく揺らし、我が子を慈しむ様な表情で見ていた。そんな母子のあたたかなやり取りを見て、何だか無性に泣きたくなる。
ふと、隆志は女性が首から下げているカメラに気づいた。
「カメラ、お好きなんですか」
「あぁ。これは夫のカメラなんです」
彼女は嬉しそうに答えた。きっと旦那さんのことが好きなんだろうなと、心が暖かくなる。
「これ、ずいぶん古い型のカメラですね。でも、よく手入れもされてて、質もいい。カメラに対するこだわりと愛を感じます。今度ぜひ旦那さんとお話してみたいです」
「ごめんなさい。あの、夫はもう亡くなってて」
そういうと、彼女は困ったように眉を下げた。
悪気はなかったとはいえ、喋り過ぎた。不快な思いをさせてしまって、申し訳ない。
「あの、何だか、すみません」
「いえ……気にしてませんから。きっと夫が生きていたら、とても喜ぶと思います」
彼女は表情をやわらげた。その顔がとても優しげに見えて、嬉しく思った。
「とても旦那さんのことを愛していたんですね」
「そんなに顔に出てましたか?」
「凄く優しい顔をしていらっしゃったので」
そう伝えると、彼女は更に懐かしむような顔をした。
「何だか、貴方は夫に似ていますね」
「そうですか?」
そう言われて、なぜだか悪い気はしなかった。
「カメラが好きな所も、なんでもお見通しなところも、そっくりです」
「そうなんですか」
「嬉しくなって目尻を下げるところも、もの凄く似てます」
何度も褒められるように言われるので、妙に照れくさい。さり気なく、隆志は話題を変える事にした。
「旦那さんはどんな写真を撮られてたんですか」
「軒下にある鉢植えとか、飲み干した後のマグカップとか、そんな生活感のある写真ばっかり撮ってました」
「父親――もう亡くなってるんですが、僕の父親も写真家で。全然顔を知らないんですけど、自分の父もそんな写真ばかり撮っていました」
「夫と趣味が合いそうですね」
「写真、見てみたいな……」
何となく、傍にあった木の皮を向きながら呟いた。すると、女性は少し考え込んだあと、おずおずと口を開いた。
「多分家に帰れば、写真集があるので、良かったら貰って頂けませんか」
「そんな、申し訳ないです」
咄嗟に口に出てしまった言葉だった。
「写真集、売れなくて家に同じものが10冊ぐらいあるし。好きと言ってくれる方に、貰えた方が私も嬉しいです」
命の危機を救ってもらったのに、さらに良くしてもらうのは気が引ける。また、写真家の端くれとして、正規の値段で買いたいという気持ちもあった。
「そんな大切な作品なら尚更です。ぜひ、買い取らせて下さい」
熱心に語る隆志。そんな真面目な様子に女性は何度か目を瞬かせた後、根負けしたと言う様にふっと顔の力を緩めた。
「わかりました。また今度郵送させて頂きますね。その時に代金もお願いします」
手元に写真集が増えるのは嬉しい。しかも、父と似たような持ち味の写真家なんて、なんて幸運だろうか。
「ありがとうございます。とても嬉しいです 」
隆志は心の底からそう応えた。
「写真集はさんざんな結果ですけど、最近は貴方のように評価してくださる方も増えて。個展も開いて、評判も良かったんです。――これからってときに事故に遭うなんて。産前にこんなことが起きて、不安で不安で仕方なくて」
彼女は首にぶら下げているカメラをぎゅっと握った。
「でも、そんな時に写真集をみたら、勇気が湧いてきて。あの人は、私との生活をこんな風に、暖かなものだと感じてくれていたんだって。だから、また頑張ろうと思えたんです」
彼女は子どもをあやしながら、呟いた。その言葉は自分に言い聞かせているようでもあった。
「きっと旦那さんもお二人のこと、見守ってくれていると思いますよ」
こんなことしか言えなかった。
「そうだといいな……」
彼女はカメラを優しく撫でる。
「私、カメラのことはよくわからなくて。夫が好きだったもので、見せてあげようと思って持って来たんです」
彼女は口ぶりこそ平然としていたが、線の細い肩は震えていた。
「あの、もし良かったらお礼に1枚撮りましょうか?」
思わず、そんなことを口走っていた。
「え、あの良いんですか!」
彼女の表情がぱっと明るくなる。
「ご迷惑でなければ、撮影させて下さい」
彼女は今日一番の笑顔を見せた。
「いいカメラを残して貰ったのに、使いこなせなくて。貴方が使ってくれた方が夫も喜ぶと思います」
肩の震えも止まっていた。良かった、と隆志は思った。
「それなら、旦那さんのお墓の前で一緒に取りませんか。
家族……写真の代わり……になるとは、いいがたいのですが……」
彼女からの返答がない。
「あ、あの……」
遠慮がちに彼女の方を向く。また、無神経なことを口走ってしまっただろうか。
「あの人が亡くなったのは急で。自分は撮る専門だからと、三人揃った家族写真が一枚も残っていなくて」
彼女は振り絞るように、答えた。
「だから、家族写真と言って貰えるのは嬉しいです。――本当にありがとうございます。だから一枚、お写真をお願いしても良いですか」
彼女は少し震えた声で、涙を目に貯めながら微笑んだ。
※
写真を撮ろうと、カメラのファインダーをのぞき込む。その瞬間、隆は目の前の光景から目が離せなくなった。
悲しくも愛しく、懐かしいような。そんな気持ちが胸の底から込み上げてくる。手先が震えないよう、慎重にピントを調節する。ぼんやりとした景色から、徐々に視界がクリアになる。レンズの中に映し出されたのは、年若い女性とその子ども。
「では、撮りますよ!」
声の震えを誤魔化すように、明るく告げる。
そして、彼女はふわりと微笑んだ。
「はいチーズ!」
シャッターボタンを押す。かしゃりと音が鳴り、フラッシュが焚かれる。
そのとき、隆志は既視感についてはっきり理解した。目の前の光景は、まさに無くした写真とぴたり構図が一致していたのである。どうして、今の今まで気付かなかったのだろうか。
「母さん!」
思わずカメラから目を離す。しかし、目の前には両親の墓があるだけで、あの親子は煙のように消え失せていた。
唖然とした気持ちのまま、立ち尽くす。冷たい風が吹き、周りの木々がざわざわとさざめいた。
いつの間にか、手の中にはカメラと、先ほど無くしたと思われた写真が握られていた。その中には父の墓を背景に、笑顔の母親に抱かれた自分が居た。
今度こそ、写真を風に攫われぬよう、しっかり鞄の中へしまい込んだ。
※
墓石を磨き、持ってきた花を添える。マッチをすり、線香に火を灯した。軽く線香を降り、火を消したあと、線香立れに立てた。細い白い煙が、先端から薄く途切れ途切れに立ち上る。
空はすっかり藍色で、雲の隙間から月がちらちら見え隠れしていた。