惨劇のイレギュラー
引き続き、由乃視点。
異変は、夕暮れを過ぎた頃に、唐突に訪れた。
「? あ、あれ、何かな……?」
隣を歩いていた白魔女が、空を見上げながら、震えた声を出した。
釣られて見上げれば、夕焼け空が急速に侵食され、夜が迫っている様子が見える。
この虚数領域は、内部時間が外と同期している。
だから、こんな急速な変化をする事なんて有り得ない。
あってはいけない。
イレギュラー!
その言葉が脳裏を過った瞬間、私は皆に叫ぶように言う。
「皆! 走るよ! すぐに外に出なきゃ!」
「あ、ああ!」
「うん……」
「ひぅっ、は、はい!」
彼女たちも異変に、イレギュラーの可能性に気付いたのだろう。
それぞれに返事をして、私たちは脇目も振らずに走り出した。
そうしている間にも、夜はどんどん迫ってくる。
端の方から中心部に向けて進んでいたそれは、とっくに私たちの頭上を飛び越えて、空の全てを覆い尽くしていた。
普段であれば、美しい星空が広がっている筈の空は、しかし今に限っては真っ暗闇である。
「クッ……! ライトッ!」
光属性は得意じゃないってのに!
内心で文句を垂れながら、私は光源を生む魔法を使う。
弱々しい僅かな光は、十メートルかそこら程度しか照らさない。
しかし、それでも真っ暗闇で何も見えないよりは、ずっとずっとマシだ。
制限された視界と、走りにくい足場に、私たちの移動速度はかなり抑えられてしまっていた。
あと、どれだけの猶予があるのか。
見えない先行きに、不安が心を焦がしていく。
ただ、早く早く、一秒でも一歩でも先へと、不確かな道を駆ける。
だけど、運命というのは、酷く残酷な性格をしているらしい。
「なっ、あ!?」
先を進んでいた子が、暗闇から現れたタウロスと衝突してしまったのだ。
『ブルルルッ!』
鼻を鳴らして、タウロスは臨戦態勢を取った。
どうやら、こちらを敵とみなしたらしい。
こんな時に……!
あんまりな不運に、内心で歯噛みする。
ぶつかった子を責めたい気持ちが湧き出すが、それを務めて押し殺した。
こんな視界なのだ。
気付かずとも仕方ない。
タウロスは直線的な動きしかしないが、その分、最高速度がかなり高い。
普通に走って逃げても、追い付かれた後ろから吹っ飛ばされるのがオチだ。
「即行で倒す! 動きを止めて!」
「分かった!」
私の判断に、盾持ちが即座に応じる。
突撃の出鼻に盾をぶつけて、押し留める。
そこに、槍持ちが飛び込み、足を傷つけていく。
「援護するよぅ!」
白魔女から、身体能力を底上げするバフが飛んだ。
普段は魔力効率が悪いので、ボス戦でもなければあまり使わないのだが、こんな時に出し惜しみしている場合ではない。
私は、彼女の迅速な判断を心の中で褒めながら、扱える中で最大威力の魔法〝ファイア・ランス〟を撃ち放った。
タウロスの身体に突き刺さった火槍は、体内で拡散して、身体の中から全身を焼き尽くした。
「はぁ……!」
一気に魔力を絞り出した事で、額から汗が流れ落ちる。
正直、一休みしたいくらいだ。
だけど、そんな事をしている暇なんてない。
戦利品の確認もせずに、私たちは再度走り出す。
しかし、それはもう遅過ぎたみたいだった。
空に光が舞った。
思わず見上げれば、さっきまで暗黒だった夜空に、天の川の様な光の粒で出来た流れが、無数に奔っていた。
身震いするほどに美しい光景だった。
それが、安全が保障された現象だったなら、私はきっと感嘆の吐息を漏らしていただろう。
だけど、今は違う。
心の中に湧き上がるのは、嫌な予感ばかりで、とても暢気に鑑賞なんてしていられない。
光の川は、頭上で集合すると、やがて地上に向けて降り注ぎ始めた。
それは、私たちを含めて包み込む。
痛みや苦しさは感じない。
ただ、今までの暗闇が嘘のように、周囲が眩く輝いているばかりだ。
だが、よく見れば異変は起きていた。
草原が、枯れていく。
青々とした草が、どんどん枯草となって萎れていっている。
そして、次の瞬間、地面の感触が消えた。
「あっ……」
遥かな虚空に放り出される、お腹の中身が浮かび上がる様な気持ち悪い感覚が、全身を襲った。
そのまま、抵抗できないまま、私たちは光の中を落下していくのだった。
◆◆◆◆◆
目を覚ませば、そこは硬い地面の上だった。
剥き出しの大地は踏み固められており、水気もなく渇いている。
周囲は、石で出来た高い塀の様な物で囲われており、まるでコロッセオの様な風情をしている。
ここには、たくさんの人達がいた。
多分、私たちを含めて、逃げ遅れた人なんだと思う。
出口の様な物は、四方にそれぞれ配置されている。
しかし、光の粒が遮っており、先に目覚めていた人たちが脱出しようとしているが、突破できないでいるようだ。
「よ、由乃ちゃん……」
傍らの白魔女が、不安げに縋りついてくる。
目尻には、涙が浮かんでいた。
「大丈夫。きっと、大丈夫だから」
何の慰めにもならない言葉を、彼女を抱きしめながら繰り返す。
私だって、泣きたい気持ちだ。
だけど、そんな事をしてもどうにもならない。
覚悟を決めて、出来る事をしなくてはいけないのだ。
涙が滲みそうな目元を引き締めて、周囲を観察する。
すると、奥の方に、ボス部屋でお馴染みにレリーフが見えた。
最初は何もなかったが、少しすると、その上にエネルギーが急速に溜まっていく光景が続いていく。
嫌な予感しかしない。
「あれを……!?」
私の位置からでは遠過ぎる上に、人垣が邪魔だ。
だから、より近い人に警告を知らせようとしたが、それももう遅かった。
何処から現れたのか、元々のボスである巨牛――トレンブル・タウロスが出現し、それは周囲の人々の一切を無視して、溜まっていたエネルギーを弾けさせてしまった。
ボスが健在な内に、エネルギーを弾けさせてはいけない。
それは、鎮伏者ならば誰もが知る鉄則だ。
それを、ボス自らが破ってしまった。
『ブオオオオオオォォォォォォォォッッッッ!!!!』
空気が、地面が、そしてこの身体さえもが、震えてしまう様な雄叫びを巨牛が轟かせる。
いや、もはや、単なる牛型ではない。
溜まっていたエネルギーを惜しみなく吸収した巨牛は、四足歩行から二足歩行へと変化している。
立ち上がった姿は、3メートル半ば程もどもある巨人となり、体つきは馬鹿みたいに引き絞られていき、ボディビルダーか何かの様な分厚い筋肉に覆われる。
蹄のあった前足は、いつしか五本の指に分かれ、蹄は硬い鈎爪となっていた。
そして、そいつは、その手を開いて、レリーフの上へと掲げる。
すると、エネルギーが集まって、一本の巨大な戦斧が形成された。
「ミノ、タウロス……」
その姿は、神話の中にある怪物そのままであり、何よりも約二十年前にクレタ島の虚数領域で確認された、悪夢のボスにとてもよく似ていた。
ミノタウロス。
かつて、クレタ島の虚数領域で発生したボスであり、当時、世界中のトップ鎮伏者を百人ほども集めて、多大な死傷者を出しつつも討伐した怪物である。
その犠牲は非常に大きく、一時、世界中の鎮伏者のレベルを大いに引き下げてしまう要因になったほどだ。
子供でも知っている歴史の話だが、そんな歴史か神話の様な存在が、今、目の前に出現していた。
勝てる訳がない。
私は、本能的にそう悟っていた。
それ程に、あいつが放つ威圧感が圧倒的だったのだ。
「う、うわぁぁぁぁぁぁ……!?」
恐怖に負けたか、錯乱したように近くにいた鎮伏者が、剣を振り回して飛び掛かっていた。
ミノタウロスは、それを一瞥もしない。
ごく普通に胴体で剣を受け止め、傷一つ付かないまま、跳ね返していた。
煩わしい虫を払うように、そいつが腕を振る。
明らかに本気ではない、本当に払い除けるだけのような動きだが、その速度は尋常ではなかった。
飛び掛かった鎮伏者は、反応も出来ないまま腕をぶつけられ、上半身が千切れ飛んでしまった。
「キャアアアアアァァァァァ!!??」
「に、逃げろぉぉぉぉぉ!」
「嫌だぁ! 助けて、助けてくれぇぇぇぇ!!」
それが、混乱と惨劇の幕開けとなった。
ミノタウロスは、蜘蛛の子を散らすように離れていく私たちを一瞥すると、にやりと口元を歪ませた後、掻き消える。
何処へ、と思ったら、遠くの方で爆音が聞こえた。
思わず視線を向ければ、戦斧を両手で振り下ろした姿勢のそいつがいる。
その足元には、盛大にぶちまけられた赤の色が広がっていた。
たった一撃で、何人が犠牲になったのか。
もはや分からない程の惨状だった。
『ブゥオオオオオォォォォォォォ……!!』
これを皮切りに、ミノタウロスは滅茶苦茶に暴れ始めた。
たまに、反撃する者もいるが、ミノタウロスは躱す事も防御する事もしない。
偶然外れてしまわない限り、全てをその身で受け止めていた。
そして、その上で、あいつは無傷なままだ。
私たちには、あいつに抵抗する手段がない。
もはや、一秒でも長く生きようと、ただ我武者羅に逃げ惑う事しか出来なかった。