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出会って一年で、すっかり後輩に攻略される  作者: 無味乾燥
二月の苦労人
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小康

 目当ての人物を探して、無秩序に机の並ぶフロアを歩きまわる。少しだけ対面で話したい案件があるときフリーアドレスという制度は少々厄介だった。幸い、香月さんは誰からどんな勧告を受けても、自分のワークスペースはめったに移動しない。いや、幸いという表現は適切でないかもしれないけれど。


 仕切りのついた、個人用のボックス席を順番に見て回って、僕は無事に彼女の背中を見つけた。


「香月さん、今、少しだけよろしいですか?」

 金曜日の昼食休憩後の時間帯。


「短時間なら構いません。どうかしましたか」

 大概の社員が、疲れ果てているか、あるいは週末に思いを馳せて表情を緩めている中で、香月さんは、やはりかちかちとした所作で僕の呼びかけに応じた。


「例のM2の引継ぎ案件のことでちょっと」

 途端に、彼女が眉間に皺を寄せる。もしかしたら、かちかちというより、今はいらいらしているかもしれない。冷たい汗が背中を伝うのを感じた。


 こんな相手に、僕は今から嘘をつこうとしている。


 香月さんが、無言のままこちらを見ているのを確かめて、僕は小脇に抱えていたノートPCにパスワードを入力する。


「森下さんに頼んでいたデータですが、先ほど頂けました」


「え、来たのですか」

 

「来ました。濃度依存性と、ついでに細胞毒性も」

 香月さんは珍しく、目を見開いていた。この様子だと、彼女も森下さんがこちらの要求するデータを持っていないと予想していたのだろう。データ提出の遅延となれば大概は原因はそんなところだ。

 

「メールでは埒があかないので直接取りに伺いました」


「その辺りの経緯に興味はありませんが、正直驚きました」

 予想外の展開に動きを止めていたのも束の間で、すぐに彼女は思考を再開したようだった。興味がありませんか、そうでしょうね、という厭味ったらしい台詞をどうにか飲み込む。これはあくまで冗談であって……。閑話休題。


 香月さんが、かけていたブルーライトカットの眼鏡を外して左手を差し出す。

「見せてください」


「あの、今で大丈夫ですか? やはりちょっとデータが散らかっていて、全て見通すと少し時間がかかりそうですが」


「かまいません。すぐ見せてください」


「では、とりあえず僕のPCで。データは後程お送りします」

 言うが早いか、僕が持ったままの画面の上で香月さんが視線を走らせる。まずさっと図表のみを観察して、舌打ちのような音を漏らした。


 ひっ……。僕は内心で悲鳴を上げながら、努めて無表情で直立する。

「君はもう目を通したのですか?」


「はい。一応、一通りは」


「どう思った?」

 たまに感じることのある、彼女のこちらを試すような質問だった。


「結構、しっかりしていると思います。N数も確保できていますし、思っていたよりバラつきが少なく、再現性も取れている」

 やや緊張しながら答える。濃度依存的にその効能が強くなったり弱くなったりしているというデータは、ある事象に対する薬剤の有効性を強固に示すものとしてしばしば用いられる。広く普及しているやり方だから、他の研究員から理解を得やすい反面、実験数が大幅に増えることが多いため、面倒に思われがちだ。


「同感です。……なんで初めからコレを出さない」

 そのデータを集めていたということは、森下さんが今回の案件に対して、真摯に取り組んできたという証左になり得る。香月さんは後半の台詞を、独り言のようにつぶやいた。

 

「そ、それは、まあ、本当に整理が出来ていなかったんでしょう。データ数も多いですし」

 言い訳のように言葉を並べる僕の手元のディスプレイを、もう一度眺めて、今度ははっきりと香月さんが舌打ちをした。ひっ、と僕はまた内心で冷や汗をかく。

 

「これじゃ、一方的にプロジェクトを降りるとも言えませんね。いい口実だったのですが」

 どっと力が抜けるのを感じた。ある程度予想していたことではあるけれど、彼女はやはりデータが出ないことを、この案件を断る口実ととらえてたようだ。全くこちらの身にもなってほしい。


「多少、森下さんの評価を改めた方がよさそうですね」

 最後に香月さんから漏れた呟きを耳にして、僕は自らの行いが徒労に終わらなかったことに少しだけ安堵した。急場しのぎではあるけれど、もう少しだけこのプロジェクトは続きそうである。


そろそろ頑張った秋葉くんへご褒美タイムです。

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