羽目を外す・2
すこし熱っぽい吐息の音が顔のすぐ近くから聞こえてくる。まさかこんなことになるとは思ってもみなかった。
「こ、こんなことに、なるとは。思いませんでした」
「お前、実は馬鹿だろ」
ご丁度に、心中で呟いたのと同じことを聞いたものだから反射的にそんな言葉が口から漏れる。けれども今夜の多少の悪口など、明日は彼女はもう覚えていないだろう。
「いえ、違うんです」
「何が?」
「私は、人前では酔わないんです」
僕も少しは酔いが回っているのだろうか、その言葉に、思わずぶっと息を吹き出す。
「全然、説得力がない」
「笑わないでください」
反射的にばっと、百井は僕の方へ向き直ろうとして、よたよたと足をもつれさせた。
「やっぱり、馬鹿だ」
再び彼女に近寄って、腕を引っ張り上げて、身体を支える。
「正直に言っていいですか?」
「なに?」
「頭が、ぐわんぐわんしてます」
あっはははと、とうとう僕は我慢もせずに声を上げる。幸い彼女の家はそれほど遠いわけでもないから、なんとか辿り着けるだろう。こんなことになった今となっては、以前彼女の家に一度お邪魔してよかったと思う。
「だから、タクシー呼ぶって言ったのに」
「今タクシーに乗ったら、シートを汚しそうで」
「じゃあ、おぶろうか?」
「そっ、それは……」
「それは?」
「まだ、辛うじて残ってる理性がダメだと……」
その彼女の発言に、またひとしきり笑ってから僕は言う。目尻には涙も浮かんでいる気がした。
「そういえば、言動はあんまり変じゃないもんな」
「はい。余計に、恥ずかしいです。ご迷惑をおかけしているという自覚が」
「だったら、もうちょっとだけ頑張って歩かないとなぁ」
「はい。すみません」
すると、途端に百井は少し沈んだ声を出した。僕は気にかかって訪ねる。
「どうかしたか?」
その時には、僕も、百井の歩みもすっかり止まっていた。
「私、初めて秋葉さんの話を聞いた時、ああ、ちょっと私に似ているのかなぁって思ったんです」
唐突に変化した話題も、彼女の今の状態を考えると仕方がないだろう。
「まさか。初めてっていつのことだ?」
まさか、彼女と僕が似ているはずがない。けれど、百井がどうしてそんな風に思ったのかは、僕も少し気になるところだった。
「入社して間もない頃。メイド先輩と呼ばれている人がいると初めて聞いた時です」
まあ、噂の中だけの範疇でなら、勘違いは仕方のないことなのかもしれない。
「頼まれたら断れない人なのかなって。だったら私と似てるかもって」
やや、舌足らずな言葉だった。それに、ふと僕は自らを省みる。
なるほど、僕と百井の行動は、傍から見ればよく似通っているのかもしれない。困っている者がいれば、少し自分の身を削ってでも、手を差し伸べようとする。だけど、彼女のそれは人の善性を信じるからこその行いで、僕のそれは、他人は何もしてくれないと人を信じないからこその行いだ。彼女をしばらく見てきた僕は、今、それを理解できている。
「でも、会ってみたら全然、違っただろ?」
「はい、全然、違いました」
「僕は酷い問題児で、チームを引っ掻き回していて。百井はちゃんと皆から求められたことをこなしてる」
六月の会議室での出来事を思い出す。百井も今頃同じことを想起しているだろうか。
「そんなこと言われたって、私は全然喜べませんよ」
拗ねたように百井は言う。
「私には秋葉さんみたいに。思い切ったことができないだけなんです」
人をひたすらに信じられない生き方と、信じようとする生き方。僕は人との関係が壊れてしまうことを甘んじて受け入れるけれど、彼女はそうならないことを前提に行動するのだから。
「それが普通だ。僕がちょっと変なだけ」
人の負の感情に触れた時、僕は、やっぱり自らの行いが正解だったと自分を肯定し続けることができるけれど、彼女は、自分の信じたものが間違いだったのではないかと自分を疑い続けることになる。どちらが思い切った行動をおこしやすいか。そんなのは明白だ。
「でも、私はそれができるようになりたいと思っているのかもしれません」
彼女はそんなことを言っているけれど。
「百井は酔うと余計なこと考えるタイプみたいだ」
だったら、だれか一人くらいは、装いでもいいから彼女の信条を肯定するような、助けてくれた彼女に報いるような行動を取るべきではないのだろうか。
僕の言葉に、百井は一瞬目を見開いて。それきり黙り込んでしまった。
「さあ、そろそろ歩かないと、遅くなる」
ぽんと背中を叩いて歩みを促すが、彼女はその場を動こうとしない。
「どうした?」
「あの、」
「うん?」
「やっぱり、背負ってもらっていいですか?」
思いもよらない一言を彼女が告げるモノだから。あははと、僕はまたも笑いを漏らす。今日は一体何回彼女に笑わされただろう。
「あ、えっと、すみません」
「いや、そういうふうに言ってもらった方がやりやすい」
出来る限り苦労を感じさせないように。僕はひょいと彼女を持ち上げる。
「あ、わっ」
最後に、くいとずり落ちそうになった身体を引き上げた時に、百井は小さく声を漏らした。
「明日も仕事だから、さっさと帰ろう」
「休みたいなぁ……」
「言ってくけど、僕のせいじゃないぞ」
「分かってますよ」
「まあ、今日みたいにほんとにダメそうな時は」
意図して、視線を足元に落としながら言う。
「頼ってくれていいから。僕が身内に甘いのは、知ってるだろ?」
すっと、百井が僕の背中に顔を埋めたであろうことを、感触から悟る。
「ありがとうございます。秋葉さんのそういうところ、私は好きです」
たとえ本人がひたすらに、人の善性を信じて。見返りなど求めていなかったとしても。




