つりあい
「これ、沖縄のお土産。息子が修学旅行で言ってきたらしくて」
「ありがとうございます」
僕の目の前で、おそらく奥さん手製の弁当を広げる町田さんは、僕にちんすこうを一つ手渡した。僕は当然ながら社食のランチメニューだ。
対面に置かれた簡素なタッパーを見ながら、ふと結婚というシステムについて考える。あまり憧れはないけれど、少なくともいくつかはメリットがあるんだろうなと思うのだ。そうでなければ、あんなに沢山の先輩が苦しみながらそんな生活を続けているわけが分からない。
「まあ、食後にでも食べてよ。有名どころのやつらしいから」
「はい、まあ食後に」
言いながらも、この場で袋を開けようとは思わない。町田さんが手土産を持ってくるときは、いつもあまり愉快でない話と一緒なのだ。
「ところで、M2の特許の件だけど」
「……何かありましたか?」
結局、開封するかどうかは問題ではなく、受け取った時点で負けだったのだと僕は悟る。
「ちょっと横やりが入ってね」
「え? 横やりですか? どこから、でしょう?」
少し、予想していた物とはトラブルの質が異なるようであったため、僕はぴたりと箸を止めた。
「臼井さんって、覚えてるかな。抗体医薬グループのGMやってる」
「ああ、あの臼井さん」
その人物の顔を思い出すと同時に、森下さんとのやや不快な記憶も蘇る。案の定M2のデータ引継ぎの一件以来、森下さんとはやや疎遠になっている。それでも、すれ違えば会釈をする程度の仲ではあのだけれど。彼の名前が出て、少し話が見えてきた。
「そう、M2で特許申請するらしいねと、こういうのはアイディアベースで話を進めるものじゃないかと釘を刺されてね」
アイディアベース。つまり、発案である抗体医薬グループの方に申請権があるのではないかという指摘だ。
「いや、でも関連データを取ったのはほとんどウチですよ。そんな風に言われて案件を引き渡しても、抗体医薬ではこちらからデータを全部渡すくらいじゃないと申請できないでしょう」
「ああ。だから、申請は勝手にやってくれていいと。その代わり筆頭発明者に向こうのグループの研究員の名前を入れろって言うんだよね」
唖然として僕は訪ねる。
「まさか、それで了承したんですか?」
「まさか。特許は筆頭発明者を出したグループの成果として数えられるからね。そんなことをするくらいなら、面倒な申請手続きを全部取りやめたほうがましだ。まあ、会社的な判断ではないけどね。たまにはグループ的な判断を優先させても罰はあたらないだろう」
僕個人の利益とグループの利益が必ずしも一致しないのと同じように、個々のグループの利益と会社の利益が一致しないことだって十分あり得る。GMという立場上、町田さんにとってのグループ利益は、僕にとっての個人利益に近いのだろう。
「ですよね。それで、その件は僕と何の関係が?」
「まあ、ほんの注意喚起だよ。君はたまに予想外の行動をおこすことがあるから。こっそりデータをリークするなんてことはないように」
その言葉に僕は意識して語調を強めた。
「するわけないでしょう。まあ、つまらないいざこざを嫌ってたまに勝手を働いていることは認めますが。今まで、町田さんにご迷惑をかけたことはないと思っています」
「そうだね」
ここでもし否定されたら、僕は異動届を出しかねなかったと思う。町田さんもその程度には僕のことを理解してくれていると思っていたのだが。
「話は本当に、注意喚起だけですか?」
町田さんはずずずと、コップの水をすする。唇を少し湿らせてから口を開く。するとそれには答えずに、けれど町田さんは言葉を続ける。それで、やっぱり注意喚起では済まないのだと僕は悟った。
「確かに僕は臼井さんから釘を刺されたんだけどね。正直臼井さんもこんな無茶な注文が通らないとこくらい分かっていると思うんだよねぇ」
「何か別の目的があったと?」
「いや、まあ、目的というよりはGMとしてのポーズじゃないかなと。その辺りは僕もGMをやってるからよく分かるんだけど」
苦笑いしながら町田さんはこめかみのあたりを指で掻く。そのまま続けた。
「多分内部のだれかからせっつかれて言って来てると思うんだな」
「は、はぁ」
あいまいにしか話が見えず、僕が間抜けな声で返事をすると。
「ところで君は、抗体医薬の森下くんと仲が良かったよね?」
「え、あぁ、いや。今はそれほどという訳ではありませんが」
「向こうの内部がどんな雰囲気になってるか、ちょこっと話を聞いてきてもらえると有難いな、なんて、思ったわけだ。それであわよくば誰がそんな我儘を言い出したのか分かると僥倖だね」
そこまで聞いて、やっぱり碌でもない話しだったと僕は溜息をついた。
「いやですよ。正直、森下さんが基礎探索の僕にそんなことをぺらぺら話をされるとは思えませんし」
それに、森下さんが我儘の主かもしれないですし、という言葉はさすがに飲み込む。けれど十分あり得る話だ。思考を巡らす僕を尻目に、町田さんは、既に広げた弁当箱を片し始めていた。
「まあ、そんなこと言わずに、トライだけしてみてよ。ちんすこうの対価だと思ってさ」
ぴり、とその外装を僕は破く。
「いや、それはいくらなんでもつり合いがとれませんよ」
背を向けた町田さんに、おそらく僕のつぶやきは届いていなかっただろう。
いつの間にやら200pt到達しておりました。こんな需要の低そうな物語にいつもお付き合いいただきありがとうございます。大変励みになります。




