いたずらに・1
「なぁ、どこへ向かっているんだ」
研究所の最寄り駅を徒歩で通過して、会社帰りのサラリーマンで賑わう地下街に差し掛かった頃、僕は訪ねた。
「秋葉さんは、ハンバーグはお好きでしょうか」
先ほどから彼女はずっとこんな調子で、一向に行き先を教えてくれない。
「……好きか嫌いかで言ったら好きだけど」
仕方なく僕は、脈絡の無い彼女の質問に答え続けた。
「ふむ……。じゃあ煮込みハンバーグと普通のハンバーグなら」
「普通のかな。強いてい言うなら粗びきで、硬めの」
「おお、いいですね。付け合わせはどうしましょうか。ミックスベジタブル?」
「家で作る時は、あんまりこだわらないなぁ」
「ああ、そういえば、秋葉さんはお家で結構作る人でしたっけ?」
「ああ。そうだな……。自分で付け合わせをつくるならポテトサラダ……とか」
「マジですか?」
急に百井がばっと振り向いたものだから、僕はびくりと肩を震わせる。
「え? 何か変なこと言ったか?」
「いえ、完璧です」
一体何が完璧だというのか。やっぱり彼女の考えていることは時々、分からない。
「何が?」
「ないしょです」
にこと、彼女はいつものように口角を上げる。
「百井はそんなのばっかりだ」
僕も少しだけ相好を崩した。
とぼとぼと数歩だけ歩みを進めてから百井が返す。
「私からすれば、秋葉さんのほうがよっぽど分かりませんけどねぇ」
「そんな風に思ってたのか? 百井には色んなことがばれるから不思議だったんだけど」
僕はかねてからの疑問を口にする。
「それは、秋葉さんが何を考えてるのかは分かりやすいですよ。秋葉さんの行動って、ワンパターンですし。でもなんでそんな考えになっちゃうのかなってところはいつも理解に苦しむということです」
「悪かったな、ワンパターンな上に、おかしなやつで」
僕の言葉に百井はクスクスと息を漏らす。
「別に貶してませんよ」
不意に、後ろを振り返って百井が続けた。
「そんな秋葉さんに、私は助けられましたからね」
こうまで、真っすぐな瞳を向けられると、やっぱり僕はどうにも心がそわそわする。
視線を反らすと、また百井はくすくすと、息を漏らすように笑った。
「もしかして、照れてます?」
「そんなことないけど」
僕はいつも、誰かの言葉で自分が揺れてしまわないように、喜ばしい時も、悲しい時も必死にその発露をコントロールしている。今は妙に、そのことを意識させられた。
「今、秋葉さんが褒められ慣れてないことも分かりました」
けれども、その優秀だと自負する制動を、彼女はいとも簡単に狂わせてしまう。
「いや、だから」
照れてない、と僕が告げようとする前に、百井が口を開く。
「いつか、秋葉さんを褒め殺しにしてみるのもいいかもしれませんね」
彼女はいつだって、僕の表面上の言葉なんて意に介さないのだ。
「勘弁してくれ……」
僕はあっさりと白旗を上げる。
「このくらいに、しておきましょうか……っと。到着です」
満足気に頷いた丁度その時、百井が不意に足を止めた。
駅から徒歩で十分程度歩いたころだろうか。彼女について歩いていたからあまり意識はしていなかったけれど、いつの間にか僕たちはスロープを上って地下街を抜けていて。周囲を見渡すと、少し背が高めのマンションが数棟と小さな公園が視界に入った。
すっと入れるような居酒屋があるわけでも、お洒落なカフェが門を構えているわけでも、大きなショッピングモールが鎮座しているわけでもない。一体ここで何をしようというのか。
「ここ、どこだ?」
心中をそのまま言葉にした僕に、百井は人差し指を一本だけ立てて見せる。
それに誘導されて、視線を上に向けた僕に、百井は告げた。
「私の、家です」
え、と。僕は言葉にできないまま唖然と口を開く。まさか、今から入ると言うのだろうか。僕もいっしょに。
僕の心中の混乱を尻目に、百井はマンションのエントランスへ足を向ける。鞄からカードキーを取り出して、リーダーにかざそうとするところだった。
「早く来てください。オートロックなので」
「か、帰るよ」
百井の言葉に、僕は咄嗟に行動を起こしてしまった。くるりと踵を返す。だって、今ここで彼女の家にあがり込むのはどう考えてもおかしい。
「え、ちょっと」
しかし、その僕の腕を引いて、百井が呼び止めた。
「どうしてですか?」
真っすぐにこちらを見つめる瞳と視線がぶつかる。
「いや、だって、流石に自宅はまずいだろ」
「まずいって、なんで?」
余りにも真剣な声音に僕はごくりと唾を飲んだ。流石にここで流されるわけにはいかない。
「まずいものはまずい。帰り道付き合ってくれてありがとう」
腕をつかんでいる百井の手を、僕はさらに反対の手で下ろそうとする。しかし、その力は思った以上に強かった。
「もしかして、変なこと考えてます?」
「……そういう、わけじゃないけど」
とうとう彼女が決定的な言葉を口にして、僕は一瞬言葉につまる。
「ならいいじゃないですか。それとも、秋葉さん彼女さんとかいらっしゃいますか? だったらこれは確かにまずいかもしれませんが」
「いや……」
口を開いてから思う。僕は馬鹿だ。嘘でもいいからいると言っておけばこの問答もここで終わったかもしれないのに。
「でしょう? それに、これは本当にお礼なんです。ちょっと私の家で休んでいただくだけ。おかしなことは何もありません」
どう考えても、おかしなことだらけなのだけれど。きゅっと腕をつかむ手に力を入れられて、僕はすぐに言葉を紡げなかった、黒目がちの瞳が、僕をまっすぐ見たまま少し揺らいでいたのもいけなかった。
「私は秋葉さんを信用してますし、秋葉さんもそうですよね?」
そして、最後には何度か聞いたことのあるその台詞で、くいと心を引っ張られて。僕はこくりと頷いた。というより頷かされてしまったのだろう。




