部門長の巡回
「ではこれは?」
厳かで、けれども怒っているのか落ち着いているのかよく分からない表情を作りながら、きっちりとスーツを着込んだ眼鏡の男性が訪ねた。化合物開発部の部門長、村瀬さんである。
「それは経時的生細胞解析システムです」
緊張の面持ちで、町田さんが回答する。
「それはリストを見れば分かります。用途は?」
対する部門長の反応は、やはりその真意が読みづらい。
「香月さん」
町田さんは同席していた香月さんに視線を送った。
「位相差顕微鏡画像を経時的に撮影し続けます。機械判定で設定した一つの細胞を追跡し続けることも可能ですので、非常に重宝すると思います」
わざとではないのかと思えるほど、香月さんはそっけない回答をした。通常では、予算編成案の承認権を持つ部門長にもう少し擦り寄って、詳しく説明してもいいものだと思うのだけれど。
「もっと具体的な用途を聞いています」
基礎探索グループの面々は皆が、上の立場からの要請を聞き入れない傾向にある。ただそれだけであれば研究所のお荷物なのだが、そこは成果と我儘のバランスで仕方なく許されている側面もある。香月さんに関しては特にその傾向が顕著だ。
部門長がそういった相手を高く評価しているのか、それとも疎ましく思っているのかは僕には分からない。
はぁ、と小さく溜息をついてから香月さんは説明を続けた。
「今年から始まった、花粉症に対する即時性の高い新薬の開発企画ですが……。この企画を成立させるには、薬剤を細胞に作用させてからの即時反応を捉える必要性があります。例えば三時間、六時間、九時間、十二時間、十五時間とサンプリングを行いたい場合、薬剤添加を朝九時に行ったとしても、終了は深夜です。社員に夜中に出社してもらうわけにはいかないでしょう。そういった際に自動撮影システムは非常に重宝すると思われます」
因みに香月さん自身は以前、部門長のことは嫌いだと言っていた。僕は嫌いだとか簡単に言わない方がいいと思うのだけれど、そういうことが会社では横行している。閑話休題。
「なるほど」
部門長が頷く中で、僕は苦笑いする。本当は香月さんがアングラでひっそりと進行中の実験でこそ、最も重宝するのだろうけれど。どういった話をすれば部門長が最も納得しやすいのかを彼女が計算したようだ。
「ではこちらは?」
数秒、予算案に目を通した後、部門長はまた、設備投資案一覧の中にある機器を指さした。実験に使用する試薬や資材はとても高価なものも存在するが、やはり分かりやすく多額の削減を成立させるには、機器等の設備投資を見直すのが効果的だ。
「こちらはレーザーマイクロダイセクション装置。……井川くん」
今度は町田さんが、部門長に指摘される前に井川さんに話を振った。
本年度の基礎探索グループの予算編成の大部分は、先ほど香月さんが説明した経時的生細胞観察装置と今話題となっているレーザーマイクロダイセクション装置だ。
「レーザーマイクロダイセクションは、検鏡下で組織を見ながら必要な部分のみを切り取ることを可能とした技術です。これによって、薬剤を投与したマウスの皮膚片から、特定の細胞のみを採取して、分化マーカー、メタボローム解析などを行うことが可能です」
説明を聞いて、部門長の眉がぴくりと動く町田さんが小さく溜息をついた。
「それは、短期的に利益につながるのかね?」
医薬品メーカーにとって商品の開発期間は十年を上回る。超基礎段階の研究に携わる僕たちが、機器に投資を行う場合、その機器を用いて開発した薬剤の売り上げに投資する、というわけにはいかない。
「それは……」
つまり、化合物を見出して、開発ステージにまで引き上げることができるかという点こそが、我々にとっての利益のバロメーターである。
「それは?」
言葉を詰まらせた井川さんを部門長はじっと見つめる。
「それは、我々が考えることでしょうか。論理の発見は自分たちが行います。ですがそれをどう生かすかは、次の、開発ステージの人間が行う仕事ではないですか」
町田さんが溜息をつく。僕はだめだな、と目を伏せた。
香月さんの説明では、会社の利益に直接つながる化合物の探索が機器使用の主目的に含まれていた。けれど、井川さんの説明にはそれがない。
超基礎段階の人間は研究活動において、得てして、会社の利益につながらない真理の探求に興味を持っていきがちだ。しかし、その興味のままに自らの研究を進めていては、GMや部門長からてこ入れが入るのは当然なのだ。
「あの……。僕は、M2の件で多少レーザーマイクロにもお世話になるつもりでしたが」
こんなふうに、思ってもいないとしても少しは方便を混ぜておくべきなのだ。
「M2というと、最近、生体情報部から移管された化合物の件だね」
部門長が、ぐいと顔ごと僕の方を向く。
「はい」
冷や汗をかきながら僕は返事をした。
「他には?」
「はい?」
「他の使用予定は? M2一件だけなら、この装置に四千万近くを落とす価値がないように思うのだが」
部門長が、まさに会社の役員らしい質問を投じる。
「……個人的には、ありませんね」
適当な嘘を並べ立ててもよかったが、井川さんは先輩だ。そこまでのフォローをするのもかえって不自然だろう。
「他に、何かなかったかな?」
町田さんが、出席者全員の顔を見まわす。基礎探索グループのほぼ全員が参加していたが、口を出そうとするものはいなかった。このグループには助け合いという概念が、あまり、あくまでも、あまり、だけど存在していない。
「ない、みたいですね」
苦笑いしながら、町田さんが部門長へ向き直った。
「ふむ、では。当日までに対象として考えておいてくれ」
当然、削減の、ということだろう。
「ちょっと……」
「分かりました」
口を開きかけた井川さんを制して、町田さんが頷いた。
その後、散会の時間まで、井川さんは不満を隠そうとしないまま、町田さんに恨みがましい視線を向け続けていた。




