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出会って一年で、すっかり後輩に攻略される  作者: 無味乾燥
二月の苦労人
4/121

先輩

 ブブっと短く一回、会社用のスマートフォンが振動した。この揺れ方はショートメッセージだなと思いながら画面を確認する。会社の事務連絡は基本的に電子メールだが、外出時用として支給される連絡ツールも今やスマートフォンの時代である。若い社員の間では、比較的カジュアルなやりとりにショートメッセージが使用されることも多い。

 

『午後の掃除はどうしましょうか?』

 実験台で、スライドガラスをじゃぶじゃぶと染色瓶で洗いながら計算する。

 このまま順調に進行すれば、12時から2時間は待ちが入る。きっちり一時間昼食休憩をとっても、午後イチで一時間の間隙ができる。


『自分は予定どおり一時からで大丈夫です』

『恵さんに何か予定があれば、ずらしますが』

 

 使い終わったマイクロピペッターを所定のラックに戻したところで、再び振動。

 

『私は今日、お昼はずっと包埋室にこもっているので、』

『秋葉くんのお昼が終わったら呼びつけてください』

 画面を確認して、僕は小さく笑いをこぼした。メッセージの相手、朝比奈恵さんは、僕の一年先輩にあたる同グループの研究員だ。彼女と僕が数少ない若手であるという事情から、グループの庶務を二人で分担して引き受けることが多い。

 

 金曜日は、細胞培養室の掃除をする決まりになっていた。先輩なのに、呼びつけてください、などと言っているあたりから、少し彼女が遊びを含ませているのを見て取る。こういった類のメッセージには、こちらもやや砕けた返信をするのが礼儀というものだ。


『分かりました。呼びつけるのは恐縮なので』

『時間になったらお迎えにあがります』


 返答はすぐに帰って来た。


『あら、すてき』

 もしかすると、今は少し暇なのかもしれない。


 午後、約束通り包埋室に向かうと、恵さんはにやにやとした表情で僕を出迎えた。

「お迎えにあがりました」

 

「ぷっ……。似合わないよ」

 恭しく一礼した僕に、嘲笑がふりかかる。


「言っておきますが、始めたのは恵さんですからね」


「あはは、ごめんごめん。じゃあ、行こうか」

 細胞培養室は、包埋室から見て、廊下を挟んだ向かいの扉の奥の部屋である。その名のとおり、細胞を試験的に飼育するための部屋だ。細胞の飼育を、研究員たちは基本的に培養、あるいはカルチャーと呼ぶ。


 培養室に特徴的な設備といえば、安全キャビネットとインキュベーターだろうか。要は前者が、細胞を用いた諸々の作業をこなすための調理台で、後者は細胞が生育しやすいように環境を整えた保管庫だ。その性質上、これらの設備は細菌等の侵入を防ぐため普段から清潔に保たれているので、デイリーの掃除に関しては、通常の居住空間と大きな差はない。


 床に適当に掃除機をかけて、作業台を不織布で拭いて。消耗品を補充してゴミを集める。最後に培養に用いた用具を滅菌して、掃除は完了する。部屋が狭いこともあって、丁寧に行っても三十分はかからない。作業も慣れた研究員にとっては単調で、自然と雑談も増えてくる。


「そういえば、来週の木曜日の夜時間ある?」

 恵さんが実験台にアルコールを吹きかけながら言う。


「ええと、多分私用はないので、早く上がれるか次第ですかね」

 僕は不燃ゴミのつまったポリ袋の口を縛りながら答えた。私用はないと即答できるあたりから、僕の生活にいかに彩が不足しているかうかがえる。


「じゃあ、確定で。そのまま空けておいてね」

 

「え、今仕事次第って言いましたよね? というより何するんですか?」

 半ば予想はついていたが一応訪ねてみる。


「うん? 飲み会だよ。抗体医薬の森下さんに誘われて」

 ああ、と僕は一つ頷いた。森下さんは、生体情報部の抗体医薬グループに所属する、気のいい中堅研究員だ。僕と恵さんとは、社内の日本酒同好会を通して顔見知りとなり、それ以来、四半期に一度くらいのペースで飲み会を企画してくれている。


「だから空けといてね。秋葉くんがいると楽だから」

 森下さんは基礎系の研究員にしてはとても顔が広く、毎回五、六人程度の小規模な会の中に二人ほど初対面の人物が混じっている。僕にとっては非常にエネルギー消費の激しい催しと毎回相成るのだが、森下さんの好意をそう毎回断るわけにもいかない。

 

「楽だからって、恵さんまた僕の隣で、落語の話ばかりするきでしょう?」

 死神とか鹿政談とか、どうしてか彼女は渋い噺を好む傾向にある。そりゃ、そんな話を出来る人間はなかなかいないだろう。


「あっはは。ばれた?」

 屈託なく、恵さんは笑う。互いのプライベートまで深く踏み込むことはなくとも、こうして冗談を言って笑い合える相手との付き合いはやはり心地よい。親友ではないけれど、上滑りする言葉だけで円滑に進行する人間関係が、やっぱり僕の性にあっている。


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