彼女の巡回
粗方の業務を終えた後、僕は十三階の角の席に腰を落ち着けて。デスクトップのショートカットアイコンから「Laplace」を起動した。Laplaceは社内研究員専用の業務用データベースだ。研究所のイベント情報が掲示板形式で随時更新されたり、共有すべき社内の実験報告書が閲覧できたり、実験に必要な各種申請書式のフォーマットを取得したりと、その用途は様々である。
因みにラプラスというと、ラプラスの悪魔を連想しがちであるが、そもそもは広場という意味のフランス語らしい。設計者の意図は分からないが、宇宙の全情報を知り得るというラプラスの悪魔でも、単に情報広場という意味でのラプラスでもこのシステムのネーミングの由来としては不自然ではない。もしかすると、二つをかけているのかもしれない。
「それは、追加予算申請届ですね」
びく、と僕の背筋が伸びた。遅い時間帯で、あまり人気もなかったものだから、すっかりリラックスした気分でキーボードを叩いていた。
「百井か。驚いた。PCの画面を覗くのはマナー違反だ」
リラックスしすぎると、とりとめもない思考の海にとっぷり浸かってしまうのは僕の悪癖だ。こんな風だから、友人が一向に増えないのかもしれない。
「いいじゃないですか。結局それを提出するのウチの部署ですよね?」
最近百井はずいぶんと、僕に対しての行動が明け透けになっている気がする。
「まぁ、確かにそうなんだけど」
追加予算申請届は、文字通り年度開始時に予定していた研究予算に追加で三百万円以上の出費が必要になった際に総務部の予算管理グループへ提出する書類である。
「間に合うんですか? 確か提出が今週末くらいだったと思いますが」
「間に合うかわからないから残業しているんだ。……ちょっとこの欄の書き方、もし知ってたら……」
僕はキーボードをたたきながら口を開く。
「うぅううん、手伝いたいのはやまやまですが、予算関連のタスクは私のグループとは別なんですよね」
言いながらも、百井はかがんで僕のPCを覗き込む。顔が近づいて、鼻先に一瞬だけ彼女の柔らかな毛先が触れた。かすかに柔軟剤の香りがする。
すみませんやっぱりだめです、という百井の声を聴いて、僕は硬直していた身体の緊張を無理やりに解す。不自然に思われてはいけないと、僕は誤魔化しついでに、ふと頭を過ったことを口に出す。
「そういえば、百井が普段担当してるタスクは聞いたことがなかった。総務部というのは知ってたが」
「私のお仕事ですか?」
こてんと百井が首を傾げる。
「百井のというより、百井のグループの」
個人に興味を持っていると誤解されたくなくて、僕は無意味に取り繕う。幸い彼女は何かを気にした風ではなく。
「私は統括運営グループですから。そうですねぇ……」
数秒考え込むような仕草を見せてから、続ける。
「社内イベント……。研究員全大会とか、開所記念祭の運営とか、グループ間業務の仲介とかですかね。あ、あと会議室や応接室予約システムの管理とかもありますね」
それで以前、会議室を不当に占拠しても問題ないことを把握していたのかと納得する。思考を彼女に読まれたなら、文句をひとつふたつは言われていただろう。
「研究しかしてない僕には分からないけど、忙しそうだな。お勤めご苦労様です」
僕がその場で頭を下げると。
「ふふっ、なんですかそれ。どういたしまして?」
くすくすと、鼻から息を抜くように百井が笑う。
「今日はなんのお勤めで十三階に?」
何の気なしに僕は訪ねる。
「今日はパトロールですかねぇ」
対する百井の返答は僕には意味が取れなかった。
「パトロール? 何かの取り締まり?」
「はい。どこかの誰かさんが、無茶な働き方をしていないか、監視に」
彼女の黒目がちな瞳が真っすぐに僕を射抜いている。
「……それも総務の仕事?」
「総務というより、これは私個人のお仕事ですねー」
「なんだそれ」
それで今度は僕が、表情を崩した。
「まあ、大きな異常はなしということで。今日はよしとしましょう」
僕のその表情を見て、百井は満足そうに頷く。
「そうしてくれると助かる」
どうしてか多少威圧的に感じられる百井の笑顔を見たものだから。それから僕は、なんとか書類の空欄を埋めて、町田さんに転送した後、わざわざ百井の目の前でPCの電源を落とすことになった。




