不法占拠とひざまくら・2
「いや、さすがに寝るのはまずいだろ、勤務中に」
なぜ今なんだとか、なぜ太ももを擦っているんだとか、いろんな思考が頭を巡って混乱したが、一番初めに出てきた言葉はそれだった。
くすくすと、百井が鼻から抜けるような笑みをこぼす。
「だったら、今日はもう退勤です。タイムカードを押しましょう」
「そういう問題だけでもなくてだな。誰かに見られたら誤解される」
何を、という部分には敢えて触れない。百井との関係とか、不真面目な勤務態度だとか、あげてしまえばきりがないから。
「何のために、会議室まで予約したと思ってるんですが? あと一時間は誰も入ってきませんよ。それにほら、ブラインドも」
百井が普段はガラス張りで中が明け透けになっている窓に視線をやる。さっきの行動はそういう意味だったのかと、僕は忙しなく視線を左右に振った。
「それで、なんで、百井は自分の膝を叩いてるんだ」
僕の指摘に、彼女の方も、やや上ずった声を出す。
「そ、それは……。こんな固い椅子じゃ、満足に休めないかと思いまして。今回だけ特別に、そういったサービスを提供してもいいという意味で」
蚊の無くような声で百井は答えた。
「絶対、それはおかしい」
即座に否定する。それは、とても魅力的な提案のように思えたけれど。
「もぅ。なんなんですか。私の方もそれなりに思い切ったことを言ったという自覚はあるんです」
「だったら……」
「でもそれ以上に、私は秋葉さんが落ち着ける場所を提供したいと思っています」
また、百井の黒目がちな瞳が揺れていた。彼女が続ける。
「十五分だけでもいいんです。誰かに見られないかは、私がちゃんと見ておきますから。寝てしまったとしても、時間になったら起こしますし」
それでもまだ首を縦に振らない僕に、恐る恐る百井が問う。
「それとも、やっぱり私のことはまだ、信用できませんか?」
「そんなことは」
自分でも驚くほどに、反射的に否定した。普段、よく自己校閲にかけてから自らの言葉を発する僕には珍しいことだと思う。
「だったら、その。騙されたと思って。きっと少しは楽になれると思うので」
もう一度彼女は、自らのふとももをすりすりと擦った。
十分と思える時間逡巡してから、僕は彼女と目を合わせられないまま頷く。
「じゃあ、ほんとに、少しだけ」
僕の言葉に、百井はぴくんと肩を震わせた。
「ど、どうぞ」
おずおずと膝に乗せていた両手を、宙に浮かせる。
僕は遠慮がちに、彼女のもとへ身体を倒した。
思っていたよりは少し硬い。
あまり身体に近づきすぎると恥ずかしいから、頭が落ちてしまわない程度に膝頭の方へ。
上を向いて、とても百井の顔なんて直視できないと思ったから、横向きに。
あまり体重をかけて、彼女の足が痺れてしまわないか心配だったから、少しだけ首に力を入れて。
そんな僕の内心を知ってか知らずか。
「そちらは固いので、」
くいと身体を引き寄せられて、頭が先ほどより少しだけ深く沈み込む。
じわ、と伝わってくる温度がやや上昇して、感触は先程よりずいぶん柔らかかくなった。顔を見れないからと、横に向けていた視線だったが、今度は百井のふとももを結局直視するに耐えられなくなって、僕はぎゅっと目を瞑る。
「具合は、どうですか」
「どうと言われても、少し落ち着かない」
「それはいけません。もっと首の力は抜いて」
すっと、百井の右手が僕の髪に触れて、それを数回上下させる。
「リラックスできそうですか」
「とてもじゃないけど、ムリだ」
だけどそれが、今の僕にとっては驚くほど強力で、言葉とは裏腹に、先ほどまで力を入れていた首は休ませて、強張っていた体からは余計な力が抜け始めていた。
「それは、困りましたねぇ」
くすくすと百井が笑う。その間も彼女の右手は僕の頭に触れ続けていて、伝わってくる熱がいとも簡単に僕の緊張を解そうとしている。
そして、だんだんとそれが心地よくなって、意識が混濁し始めた時、僕は自然に言葉を漏らしていた。
「ほんと言うと、望月相手に坂口のことを悪く言うのはけっこうしんどかった。僕はこれで結構、彼のことを好ましく思っていたから」
「だと、思いました」
落ち着いた百井の声が、すっと耳から脳に染み入る。
「もう、こんなことはしないでくださいね」
そっと、今度は肩に触れられた左手から微かな温かみを感じる。
「でも、してしまったことはもう取り返せませんから。大変だった分は、ちゃんと精算しましょうね。私にはいつだって、甘えていいですから」
おそらく、最後に聞いた百井の声がそれだった気がする。
自分でも驚くほどに、僕は簡単に意識を手放して。すとんと穴に落ちるように深い眠りについてしまったようだった。
四月編完結です。少しづつ二人の仲が深まってまいりました。
五月は長期休暇がありますので、しばしの幕間を挟んでまた本編へ突入予定です。
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