鍵盤
僕たちの所属する会社は、ほんの数年程前から十二月を決算期としている。世にはびこるグローバル化の波にのまれ、海外にもいくつか拠点を置いている企業としてはごく自然な流れだ。しかし、日本の活動拠点では未だに、四月を年の始まりと認識する社員も数多くいる。理由は単純で、採用した新入社員の多くが四月から勤務を開始するからだった。
出社した僕は、研究所の一階で、作業服を着た数人の男が木製の大きなモニュメントを組み立てているのを見つけた。研究所は一階のみ、部外者が自由に出入りできるようになっていて、必然、内装も来所者を意識した創りになる。
少し考えて、今作業員たちが集まっている場所に、先月末まではランプがいつくも釣り下がった枯れ木のようなオブジェが鎮座していたことを思い出した。
「アイディアツリー、撤去されちまったみたいだな」
声につられて振り向くと、通勤用のリュックを背負った垣内が立っていた。まだ勤務前だと言うのに、彼は既にスイッチが入っている様子で、いつもと変わらぬはきはきとした口調だった。
「あれ、アイディアツリーて言ったんだっけ」
「確か説明書きにそう書いてあったぞ。花も咲いてなければ、葉も一枚もついてなかったから、アイディア枯れそうだって、先輩が言ってたけどな」
「確かにな。とにかく目立ってはいたけど、意図はよくわからなかった」
苦笑しながら同意する。
「まあ、あれを置くように提言したのは、お宅らの部門長らしいけどな。枯れそう、なんて言った先輩は、部門長の耳に入った後、慌てて弁明してたし」
ふっ、と思わず声を漏らす。一般の社員がある程度の親近感を持って接することが出来るのは、GMまでが精々だ。為人にもよるが、化合物開発部の部門長は、とても冗談を笑い合えるような雰囲気ではない。
「そりゃ、気をつけないとな。今度のは誰のアイディアか先に聞いておいた方がよさそうだ」
ああ、と頷いて垣内が続ける。
「今度の、あれはなんだ? ずいぶん大掛かりなものを組み立てているみたいだけど」
「パイプオルガンだな、あれは、多分」
するりと、僕の口から単語が出たことに垣内は驚いたようだった。
「パイプオルガン?」
「古い、ピアノみたいなもんだよ」
実は全然違うけど、と僕は小さな声で付け足したが、垣内はそれを気にした様子ではなかった。楽譜に親しみのない人種に、オルガンは管楽器だけどピアノは弦楽器なんだなどと講釈をたれても面白くないだろう。
「それで、何でそのパイプオルガンが、搬入されてるんだよ?」
「さあ、新年度を迎えて、オブジェも心機一転ってとこじゃないか?」
徐々に組み上がっていく様子を僕は、ぼうっと眺めながら答えた。
鍵盤が目に入ったところで、中学生時代の自分をふと思い出す。一日の内の大半をあのピアノの前で過ごして。母親に音を聞かせては、ぱんっ、と楽譜で頬を叩かれた。
楽器に恨みはないけれど、それを見て想起される僕の思い出は、気分の悪いものばかり。褒められるためではなく、叱られないように、僕は一心不乱に鍵盤を叩いていた。
今思えば、母に叩かれた分を、そこで精算しているようでもあった。
「心機一転と言えば……。例の件で今日は面倒な会議が入っていたなぁ」
垣内の盛大な溜息に、僕は思考を引き戻される。
「ああ、あれか。例年、碌なことにならないもんな」
介入が面倒すぎて、確か昨年はひたすら傍観を決め込んでいたことを思い出す。
「何、他人事みたいに言ってるんだ。今年もお前はメンバーに入ってるんだからな」
不躾にも、垣内は人差し指で僕をさす。
「そうだな。じゃあ、また午後に」
ただでさえ、業務で手一杯なのだから、今年も出来る限り関わらずに済めばいい。垣内の指をつかんで、それを下げさせながら、その時はまだ、そんなことを考えていた。




