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出会って一年で、すっかり後輩に攻略される  作者: 無味乾燥
一月の出会い
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パントリー


「じゃあ、俺はそろそろ」


「はい、お疲れ様です」

 夜、消灯前の研究所にはほとんど人が残っていなかった。大手の一部上場企業、投資家たちの間では、Core30なんて、仰々しいカテゴリに分類されるこの会社は、世間体というものを非常に重要視する。昨今叫ばれる働き方改革の波にすっかり飲み込まれて、僕が入社した5年前から比べると、夜のオフィスの様相はずいぶん変化している。

 

 完全消灯まで残り九〇分を切ったところだ。上司も先輩も皆が帰宅し、ようやく静かに自分の仕事に集中できるホットタイム。

 

 追い込み前の最後の充電として少しだけ休憩をとろうと、パントリーに足を向けた。昼間のパントリーは年配の女性派遣社員の、真夜中のパントリーは僕のような萎れた中堅平社員の束の間の憩いの場だ。


 足を踏み入れたところで、薄暗い冷蔵庫の死角に人の気配を感じて僕は、ぴくと足を止めた。


「あっ、メイド先輩」


 まさか人がいるとは思わなかった。顔を向けるとその小柄な女性社員は、しまったとばかりに片手で口を覆っている。


 パントリー全体が薄暗くて、はっきりと視認できないが、全く見覚えのない顔ではない。名前は分からない、が、総務部の新入社員だったか。向こうもなにやら独り言を聞かれて気まずそうな雰囲気であったから、僕は軽く会釈だけをして、いそいそとポットの前へ向かった。


「それ、今沸かし中なんです」


「ああ……」

 間の抜けた声が漏れた。確かに湯沸かし中のランプが点灯していた。仕方ないと踵を返そうとした僕の腕を、女性社員が弱くつかんだ。


「でも、あと三分も待てば沸きますよ」

 まさか腕をつかまれると思っていなかった僕は、一瞬思考を止めて考える。


 三分待つということは、ほぼ初対面のこの女性となんでもないような会話を、少なくとも二分持たせなければならない。苦手かどうかはさておき、それは僕にとって最もエネルギー消費が激しい行動のひとつだ。


 だが、その一瞬の躊躇が命取りだった。目の前の女性にとって、会話を続けることなど造作もない案件らしく、足を止めた僕に満足するように、にこと口角を上げた。


「私、総務の百井(ももい)といいます。去年入社したばかりです。せんぱい、で間違いありませんよね?」


「そうですね。五年目なので」

 短く答える。


「アキバ、さん?」

 百井と名乗った女性の視線が、僕のお腹のあたりに落ちていた。そこでは首から下げた社員証がふらふらと揺れている。


「そう。秋葉と言います」

 もう一度短く答えた。


「部署はどちらですか?」


「基礎探索です」

 また、短く答える。もしかしたら彼女としてはもう少し情報を加えてほしかったところかもしれない。それを知りつつ、僕は短く答える。いや、短く、というのは印象が悪いだろうから、端的に答えていると訂正する。僕の好感度の問題はさておいて。……閑話休題。


「へぇ、基礎探索。あの、いつも、難しそうな機械と格闘してる」

 百井はかたかたと、キーボードをたたく仕草を見せた。


「そんなふうに見えますか?」

 適当な相槌を打ちながら、僕は助かったと、胸中で一息つく。あんなにも素っ気ない返事を繰り返した相手に対して、次々と質問を繰り返すことのできる人間は、雑談が得意なタイプの人種だ。その場合、僕が消費するエネルギーは比較的少量ですむことが多い。


「みえますよぉ。あれって結局なんのお仕事してるんです?」


「僕のチームは、Ⅰ型アレルギーに対する有効成分の探索、ってところです」


「イチガタアレルギィ?」

 こてん、と百井は首を傾げた。さぞ男受けしそうな仕草だな、と思う。

医薬部外品を中心に、化粧品から風邪薬まで広範囲をカバーするメーカーの研究所で、理系人間の巣窟であるあるこのオフィスにも、こんな雰囲気の女性が確かにいたのだということを思い出す。


 基礎探索とカテゴリの近い部署に所属する僕の周りの女性は、大概が、カチカチ、キリキリとしていて張り詰めた空気を身にまとっている。決して悪口ではないのだけれど、もう一度言うと、カチカチ、キリキリとしている。具体的にどうなのかというと、それはもう、各々が想像してほしい。


「まぁ、相手にしてるのはもっぱら花粉症ですね」


「あぁ!」

 それなら私にも分かります、と百井は控えめに手を打った。同時に、ポットから小さな電子音が漏れる。


 ぱちくりと、互いの視線が空中でかちあった。言葉を決めかねている様子の百井を見て、僕は口を開く。


「沸きましたね。お先にどうぞ」

 すると、百井は一瞬目を見開いてから、やがてクスクスと鼻から息を抜くように笑った。


 怪訝な顔で戸惑う僕に、百井が説明する。

「秋葉さん、どうしてずっと敬語なんですか? 私、まだ一年目のひよっこですよ」

 言われて、僕は少し考える仕草を見せる。


「初対面の相手だから?」

 確かに僕は誰に対しても敬語だけれど、それはその方が話しやすいからだ。では、敬語だと話やすいのはいったいなぜだ。


「なんで疑問形なんですか……。あ、秋葉さんのコップどれか教えてください」

 百井がまたクスクスと笑う。そこまで笑うことだろうか。


「ああ、それ、そこのグレーの。と、いうよりいいですよ。自分で淹れるから」


「もう、いい加減その敬語やめてくださいよ。笑っちゃうので。ふふっ。すみません。コーヒーと紅茶どっちですか?」


「いや、だから、自分で淹れるから大丈夫」

 意図的に敬語をはずすと、僕は相手に自分をのぞかれているようでひどく不安な気持ちになった。そしてようやくはっとする。敬語はいつもほんの少しだけ、僕の本音を隠してくれている。それは些細なことに対する苛立ちかもしれないし、上司に対する恨みかもしれないし、後輩に対する傲慢かもしれない。


「どうしてですか? 部署の先輩はみんな、私にコーヒーを頼みますよ?」

 僕は、入社して間もない年下の女性相手に、傲慢になることなく、あるいは過保護になることなく、フラットな自分で接することができているだろうか。


「いや、だから……」

 たかだか敬語を失っただけで、少し不安になるなんて情けない。僕が答えあぐねていると、百井は口を開いた。


「ここまで頑なな方も珍しいですねぇ」

 確かに入れてくれるというのなら、素直に頼めばいいのかもしれない。それでも断るということは、それは、相手に遠慮してということではなく。


「いや、人になにかをしてもらうのって、何となく落ち着かなくて」

 僕自身の気分の問題なのだろう。僕の言葉を聞いて、しばらく目をぱちくりさせていた彼女は、やがてはっと思い出したように言葉をつないだ。


「私の入れたコーヒー、美味しいって評判なんですが」


「じゃあ、紅茶で」

 観念して僕が答えると、彼女が再び鼻から息を抜くように笑った。


「ふふっ、あまのじゃく」


「いや、もともと紅茶派なんだって!」

 少しだけ大きな声が出た。それは家族と、小学生の頃からの友人、会社の同期数人にしか発さない僅かばかり砕けた調子だったような気がする。彼女はまたも、鼻から息をぬくように、小さく笑っていた。


「どうもありがとう」

 どうも彼女といると調子が崩されるような奇妙な感覚があった。それは少し、怖いような、くすぐったいような、だけど、その先を見たい好奇心を掻き立てるような不思議な気分で。とにかく、気持ちがそわそわするものだったから、グレーのカップを受けとった僕はすぐにパントリーを後にしようと考えていた。


 あるいはそれは単に、休憩にしては時間を使いすぎた後ろめたさなのかもしれない。


 僕はいつも、自らの本心を見つけることが苦手だ。育ってきた環境か、僕のパーソナリティか、それとも何かきっかけとなる出来事があったのか、基本的に自分を装うことに意識を向けて生活しているうちに、こんなことになってしまった。


「秋葉さん、今日は何階ですか?」

 しかし、百井はふと思い立ったかのように、出しかけのカップを引っ込める。

 

 多様性を愛することを社風とした我がメーカーでは、土地の狭さを補うため、実に15階建てになってしまったこの研究所にも、フリーアドレス制を敷いている。何階ですか? とはつまり、どこで働いていますかという問いのことだ。


「今日は十三階かな」

 基礎探索のように、製品に直結しない探索的研究を進めている部署は比較的、研究所の高層階に拠点を置いていることが多い。逆に商品開発系が低層階、高層、低層どちらからもアクセスしやすい中層階に、総務部や知財部といったような双方の業務をサポートすることのできる部署が陣取っている。


「うぅぅん、私は今日十一階なんですよね……」

 ちなみにパントリーは3フロアごとに設置されているため、三階、六階、九階、十二階と十五階の社員食堂に位置している。ここは12階だった。


「はぁ……」

 何をそんなに唸っているのか。百井の発言の意図が汲めず、僕が間の抜けた声を出す。


「十三階で、この時間からまだ実験ですか?」

 例の機械を使って、と、また彼女がキーボードを操作する仕草を真似る。


「いや、もう今日は解析だけだから、デスクワークかな」

 僕のその返答に満足したように、彼女は一つうなずいた。


「よし、じゃあ、一緒に十一階でやっちゃいましょう」

 にこと口角を上げる。


「……は?」

 初対面の相手に躊躇なくそんな言葉を発せる人間が、僕には少しだけまぶしい。


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