【1】冒険の書はアンモニア臭がする
昨晩、どのように床についたかは覚えている。
めでたい席だとはいえ、記憶を飛ばすほど呑んだ覚えははないし、今までそのような真似をしたことは一度もなかった。年齢相応の行動は弁えてるつもりだから、飲酒による失態など、吐きすぎて結膜化出血させた23歳の誕生日以来、一度もないのだ。それでも記憶はあった、夜中に便器を拭いたことも覚えている。
なのに、今現在、目の前に広がる木造の天井は何なのか。
自宅の天井は白の漆喰で、花柄が人面に見えてしまうショボい仕上がりだったはずだ。間違っても眠っている間にそれらが全て剥がれ落ちるわけがないし、たとえそうだとしても、その裏にある板がログハウス風仕立てなわけがない。なんかこう、光沢がないか? 部屋が暗くて気のせいかもしれないけど。
ああ、これは夢か。私はまだ夢を見ているのか。
つまり、これは夢だと認識できる〈明晰夢〉というものなのかもしれない。明晰夢からの目覚め方はあるのか、いやいや、むしろこのまま夢を楽しむのも一興かもしれない。確か自分の思うがままの世界になるはずだ。このまま身体を浮かして飛んでみたい。
「……」
飛べんがな。
じっと天井を見ていたが、身体は一向に浮きやしない。
誰だ、明晰夢は自由自在に夢を操れるとかほざいた奴。なんも起きんがな。
だがまあ、いいとしよう。別に夢に頼らなくても、既に私は自由に生きられる力を得たのだから!
これからのことを考えると、どうもにやけてしまう。
昨晩の飲み会は、長年勤めていた会社との縁切りというか、送別会だったのだ。
俗にいうブラックよりかはチョイマシなグレー企業。これといって不満はなかったが満足していたわけでもなく、ただ他に良い条件の職場がなかったので、転職することもなくダラダラ働いていたら、いつのまにか15年近くもの月日が流れていた。
それがどうだ!
毎週金曜に職場の同僚数名と金を出し合って購入していた宝くじ。
コイツが見事にジャックポットをぶち当てたってんだからハレルーヤ!
賞金総額481億。かかった年月、実に十余年。費やした金額は聞いてくれるな。
税金抜いた後は半分ほどになるが、それでも263億ほど。全員で分けても50億ほどにある。十分なる老後資金だ。老後にはまだほど遠いのだが。
しかし、あの土曜は一生忘れることないだろう。
誰よりも早く当選番号を確認し、宝くじを持っている同僚に脅迫電話を一発。奴がトンズラしないように他の連中を集めて同僚宅に突撃をし、朝の5時前だったがシャンパンを空けたのは先月末のこと。
それから全員で会社にTwo weeks notice(退職する二週間前に出す届のこと)を出したのだが、さすがに進行しているプロジェクトの主要メンバーがごっそり辞められるのはキツイらしく、上層部まで出てきた。
結局、一ヶ月後退職となった。億万長者となった余裕で、最後の一ヶ月は真面目かつ短時間勤務で引き継ぎした。
「文句があるなら、今すぐ辞めてもいいんだぜ?」と、調子に乗ったのはまずかったかもしれないが、もう知ったこっちゃない。
その間に、賞金を山分けして税金支払って全員ハッピーにもなった。新聞にも載った。顔出しで。
以前から目を付けていたハワイの家も買った。ローンのない老後は頼もしい。
今の貸家も残りの契約分を一括で支払った。終了前に引っ越すし。
人生初のレーザー脱毛もした。歯医者にも行った。念願のレーシックだってやってやった。
かなり充実した一ヶ月だったといえるだろう。
ニューヨークに家を買ったという同僚宅で送別会をしたのは【他人に宝くじに当たったことを知られないため】で、数エーカーもある敷地で思う存分乾杯し、各自の早期リタイアの計画を語り合ったのが昨晩。帰りは運転だから泥酔などとんでもない。寝首をかかれないよう、同僚宅に泊まることもしなかった。決して同僚を信じていないわけではないよ、決して。
酔いが醒めてから安全運転を心がけて帰宅し、シャワーを浴びて大好きな狼のぬいぐるみを抱き締めながら眠ったまでは覚えている。ちゃんと自宅へ戻ったのだ。ちゃんと自分のベッドに入ったのだ。ちゃんとゴンゾウを抱いたのだ。
なのに、ココはどこなのか?
徐々に環境音というか匂いというか、視覚以外の感覚も覚めてきた気がする。木の香りに混じる鉄臭さ、未だ微動だにしていない身体に触れる布の薄さ、いつもの鳥のさえずりはなく、むしろ遠くで工事のような重低音もする。静かな住宅地だと思っていたが、道路の反対側で老人ホームが~とか聞いた覚えがある。建築工事が始まったのか、まだ暗いのにお疲れ様なこってす……そう目を瞑って二度寝を決めた。
「……」
こんな暗い中で工事?
カッと目を開くと、そこにはさっきと変わらない木造の天井。
今の季節、日の出は7時頃。まだ暗いということは日が昇っていないから、7時前。
工事は基本、日の出からだぞ!
瞬時に心拍数が上がり、身体がビクリと震える。その際に、肌にこすれるシーツの粗さに気付く。
――うちのシーツじゃない――
寝具には拘る性格で、エジプシャンコットンのスレッドカウント1000の肌触りは知っている。間違っても今触れているザラザラシーツではない!
漫画のようにガバッと勢いよく起き上がれるほど若くはないのでゆっくり起き上がる。暗さに目が慣れ始めてくると、部屋の中が見えるようになってきた。
まず、今まで寝ていたベッド、というかマットレスはキングサイズよりも大きい。あわせて枕も大きい。漫画に出てくるサイズ感がおかしい金持ちのベッドか。床に直置きのようで、台がない。かけシーツ一枚で布団がないが、よく冷えなかったものだ。しかも、四方が柵のように囲まれている。ナンダコレ。ベッドに閉じ込めちゃいましょう的な倒錯したアレか?
家具も見たことがないし、自宅と配置が違う。クローゼットの引き戸があった場所に扉があるし、ベッドの右側はバストイレのはずだったのに窓がある。しかもかなり上にあってカーテン付き。ブラインド派の自分がカーテンを付けるわけがない。窓があれだけ上って、天井まで何メートルだよ。
他にも大きめのチェスト、フローリングに敷かれた楕円のラグ、木製の椅子、床に何転がっているいくつかの影は、シルエットからして玩具だろうか。檻ベッドに大きな玩具とは、なかなかキンキーな組み合わせだ。
寝てる間に、攫われた、かな?
宝くじ当選者が殺されることは珍しくもない。誘拐されたっておかしくもないだろう。ましてや一人暮らしだし、仕事も辞めて早々に隠居生活ともなれば行方がわからなくなっても怪しまれないから攫いやすい。身代金は本人から、となるが、そういった場合での生存確率ってどれぐらいなんだろう?
とはいえ、別に腕が縛られたり、足枷をはめられたり、さるぐつわを噛まされているわけでもない。変態檻ベッドに寝かせられているだけで、逃げようと思えば逃げられる。多分。気合と根性さえあれば。
とりあえず立ち上がってみたが、意外に柵が高く、肩まであった。
よし、出られん。
なるほど。別に縛り上げなくてもいいってわけか。やるじゃねえかチクショウ。
自慢ではないが、この高さを登れるだけの腕力はない。足場がないし、鉄棒でもないから勢いをつけて~も無理だ。痛いのは嫌だし、大人しく誘拐犯と対峙した方がマシかもしれない。これが映画でヒーローが助けに来てくれるならまだしも、そんな都合の良い展開を望むほど二次元脳は持っていない。
それよりも、現実だ。誘拐犯がやってくるまで待ちたいのだが、そうもいってられない状況である。目が覚めてからというもの、さらにその圧は強まるばかり。
ダムが、決壊寸前だ。
久々に呑んだし、あれだけ水分摂取すればアレが近くなるよね!
逃げる気は毛頭あるが、それよりも溜まりに溜まった黄金水を開放したい。とはいえ、考えると余計したくなるから、別のことを考えたい。今は別のことって言うと当選した宝くじか脱出なんだけど、脱出できない。登ろうとすれば間違いなく、漏らす。
アラフォーでお漏らしは、キツイ。
そう思った瞬間、引っ込んだ。何プレイだよ。
圧をかけないよう、仰向けに寝転んだ。決して諦めたわけじゃない。ただ、一番アレしない体勢がいいと思ったのだ。横とかうつ伏せとか、なんかアレだから。
意識を他のことに~とドレミの歌を脳内で歌いながら天井を見上げると、ふと左上に何かが視界に入った。
どこからかぶら下がっている、一本の縄。綱引きとかで使いそうな太い縄が、何故こんなところに……あ、そうか。ここは変態檻エロベッドだった。
暗くてどこに繋がっているのかわからないが、縄を軽く引っ張ってみる。
何も起きない。もう少し強く引っ張ってみようか、と起き上がってどこに繋がっているのか目を凝らしてみる。
壁についてる物体に繋がっているようだ。それが何かは見えないし、識別もできない。暗くて距離があるし縄に繋がる物がベッドにあるなんて想像もできない。
SM的な?
思わずパッと手を離した。あまり触っていたくない。何が付いているわかったもんじゃない、ばっちい。
しかし、身体は待ったなしで圧をかけてくる。
起き上がったがために、股間への圧が再びぶり返したのだ。四つん這いになり、両脚を力の限り寄せ合い、背筋がこれほどなくピンと伸びる。息を止めていると、汗が一筋、背中を伝った。
おお神よ、もう限界です☆
押し寄せる波を乗り越えても収まる気配がない圧は、今にでもダムを決壊させて大洪水になろうとしている。
「もはやこれまで! よいしょおおお!」
肚を括り、何が起きるのかさっぱりわからないというかもう何が起きてもどうでもいいというか今何が起きてんのかもわからないしそもそも何でこんなもん必死になって引っ張ってんだという混乱とヤケクソ感と共に縄を思いっきり引っ張り、足を柵にかけた。
瞬時に思い浮かべたのは、よくアクション映画に出てくる【建物をロープ一本で壁を蹴りながら降りてくるスペシャル何とかチームの隊員】だ。アレの逆をすればいい。要は縄で体を引っ張り上げればいいんだ!
その際に爆発しようとも構わない!
時限爆弾を抱えた身、どうせなら戦って潔く散りたい!
そう決意したのだが、カチッという音と闇を無に帰す光に驚いて手を放してしまった。運よく巨大枕に落ち、下半身への衝撃を和らげることができた。ミジンコ程度の理性と羞恥心で、ヒビの入ったダムは決壊せずにいる。もった、耐えたぞ! 我が尊厳、まだ失われず!
そして、命懸けの縄はというと、部屋に明りをともしたのだ。
煌々と輝く球体があった。蛍光灯やLEDとは違う種類の光源に、思わず見とれてしまった。部屋を照らし出すほどの眩さなのに、直接見ても眩しいと感じない不思議な光。一体どうなっているのだろうか、気になる。
気になるけども、今はそれどころじゃない。明りは嬉しいが、こうじゃない。もっとこう、音が出るような、誘拐犯に気付いてもらえるようなアレを期待していたんだ! 気付いて、誘拐犯! 私はもうひでぶっている!
体を小刻みに震わせながら耐えていると、扉の向こうから重い足音が響き、近づいてくる。おそらく部屋の光が漏れたか自分の声が聞こえたかで気付いたのだろう。ここは本来ならば恐怖するところだろうが、今の私には救世主の到来にしか聞こえない。扉がギッと音を立てて開く。
だが、柵に掴まりながら必死に堪えるその目に映ったのは、想像外だった。
「ナバンニ?」
巨人だ。
2メートルをゆうに超えているだろう身長に、シャツとズボンでも隠しきれない某アメコミに出てくる緑のスーパーヒーローばりの肉体美。ガンマ線を浴びすぎたのか、頭髪はない。眉毛もない。アルビノよりも白い肌は白粉でも塗ったかのようだ。
これは、人間なのだろうか?いや、見た目で化け物扱いするのは失礼だ。奇形症候群といった病気だろうか? 待てよ、誘拐犯だったら失礼とか必要あるのかな? 人として失礼か。というかどうでもいいけど――
怖い。
体が完全に竦んで動かない。全身が強張って震えているのがわかる。
こちらを訝しげに見たかと思ったら無言で近付いてきた。相手の目から目が離せない。怖いのに、目が逸らせない。徐々に縮まる距離と共に、見上げる首の角度が変わっていく。
座り込んでいた自分の前に立つと、垂直に見上げるほどだ。口が情けなく開いたままで、見下ろされる目が黄色か黄金だと気付いた。恐怖で凍りつく、とはこういうことを言うのか。視界が徐々に狭まり、周囲が見えなくなっていく。めまいか、気を失う前兆だろうか。
視界の端で何かが動く。
それが相手の腕だと気付いた時、手は既に柵を越えようとしていた。
コウ・ナトリ。37歳。
短い人生であった。
死出の旅立ちを飾るアンモニア臭は許せないから、恨んで化けてやる。




