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高く遠く、淡く青をぼかしたような冬の空。どこまでも続く牧歌的な田園風景。
田舎だ。そうとしか、言えない。
空気は澄んでいて(時折、牛の臭いはするけれど)夜には星が綺麗だ。ただ、それ以外には何もない。
ぐい、と伸びをすれば、朝のパキッとした空気が肺に満ちて、ぶるりと全身が震えた。
毎年恒例、先生の研究旅行には大抵一人か二人のお付きが選ばれる。そして今年は誰の反論もなく、当たり前のように僕の同行が決まっていた。
先生の地元でマイナーだが多大な功績を残した哲学者の、遺稿やら何やら大量の資料が発見されたらしく、彼に関する研究書を一冊書いて欲しいという依頼があって、この数年そのための調査を続けているらしい。それは哲学でなく歴史学の領域なのではと思うが、大人の事情で地元の研究者かつ哲学者である先生に話が回ってきたとのこと。
僕は鞄持ちという名目で同行してはいるのだが、先生は荷物らしき荷物を持たないし、フットワークが軽くてすたこらと一人でどこにでも行ってしまう。
そんなわけで、来年から書く卒業論文と、それより何よりも就職活動に頭を悩ませるくらいしかやる事はなかった。
今から気が重い、と白い息を吐き出す。
僕はどんな大人になるのだろう。どんな大人に、なるべきなのだろう。
このモラトリアムの間に何かを成そうと、志高く大学に入ったはずだった。
僕の手には今、何が残っている?
重くまとわりつく考えを振り払って、また一つ、白い息を吐いた。
こんな寒い朝早くから、先生は何をしているのだろうと、少しだけ恨めしく思う。
今朝は携帯の喧しい着信音で目が覚めた。僕と先生は民宿で障子一つ隔てて眠っている状態なのだが、どうやら先生は朝から留守にしているらしく、いつまでも着信音は鳴り響いていた。緊急性の高い案件だったらいけないと、民宿のおばさんの『この時間帯ならお寺にいるかもしれない』というアドバイスに従って歩いて来たのだが。
目当ての寺はひどくこじんまりしていて、先生の姿はすぐに見付かった。
「井口君……?」
首を傾げた彼の手に、手桶と柄杓を認めた瞬間、ここに来たことを後悔した。墓参りだ。
寺と言われた時に、何故すぐにその可能性を思い付かなかったのだろう。
これは、間違いなく彼のプライバシーに踏み込む行為だった。
「……電話が、ずっと鳴っていたので。緊急の用事だったらいけないと思いまして」
「ああ、済みません。それで起こしてしまったのですね。きっと大学か、編集さんでしょう。いずれにせよ折角来てもらって申し訳ないのですが、少し待って頂いて構いませんか?そんなに時間は掛かりませんので」
「もちろんです」
僕は頷いたが、ここで引き返すべきなのではないだろうかと逡巡した。それでも彼はまるで気にしていないかのように、奥の方へとスタスタ歩いて行ってしまったので、僕はおずおずとその後を付いて行った。
先生はまだそれほど古さを感じさせない御影石の墓の前で立ち止まり、手桶から水を掬って何度かそれに掛け、すっとその前にしゃがむと静かに手を合わせた。
その一連の流れはとても自然で、今まで幾度となく繰り返されてきた儀式なのだと理解した。
「私の、妻です」
呟かれた言葉を、理解するのに少し時間が要った。
「私達は、この町で生まれ、この町で出会い、この町で恋をしました……それももう、ずっと昔のことだ」
彼の左手に光る銀の指輪が、いつもよりずっと、冷たく悲しい輝きに見えた。
「結婚して、すぐに彼女はいなくなって。あの時から、私の時間は止まったままです」
どうにもこの田舎の風景は、普段接している先生のイメージとも、霜月肇のイメージとも乖離していて違和感ばかりを抱いていた。それでも、今ようやく納得がいった。
ここは間違いなく『彼』の生まれた場所だった。彼を形作った場所だった。
いつも哀しくて、寂しくて、誰かに愛してほしくて。でも『誰か』では足りなくて。
彼の理想を、泡になって消えてしまった恋のある場所を、ここではないどこかを、いつもどこかに探している。
「言葉にならない痛みを抱き締めて、何が欲しいのかも分からないまま、欲しい欲しいと子どものように泣き叫んで。それでも結局、私には書くことしか出来ませんでした。そんなエゴの塊を、君達に読ませていることに罪悪感を抱きながら、確かに救われている自分がいるのです」
自嘲気味に言葉を吐き出す先生に、胸の底から湧き上がる何かがあった。
僕は、僕だって、確かに彼の書く言葉に救われていたたんだ。子どもの頃に疑いもなく信じ切っていた、愛や理想を恥ずかしげもなく謳ってくれて、この世界から逃げ出したいとどこかで願う心を許してくれた。彼の小説の中には確かなネバーランドがあったから、だから明日もこの現実で歩いていけると、そう思えた。
「先生」
僕は自分でも、どちらの意味で彼を呼んだのかは分かっていなかった。それで良いと、思った。
「貴方の紡ぐ哀しい言葉が、貴方の描く優しい世界が、好きです」
先生は、息を呑んで僕を見詰めていた。どうか、僕の心が欠片でも良いから伝わって欲しいと、願った。それが先生のどれだけの救いになるかは分からなくても、それでも。
「ありがとう」
ただ、それだけを告げて。
泣きそうに顔を歪めて、それでも笑って見せた先生は、どんな表情よりも人間らしい顔をしていた。




