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大好きな作家が、たまたま自分の師事する教授だった。
教え子が、たまたま自分の作品の熱烈なファンだった。
これを単純にラッキーな偶然だと捉えるには、僕達の現実における距離感は微妙過ぎた。
堂々と顔出ししてサイン会をしていたのだから、別に作家である事を隠している訳ではないのだろう。それでも確かにあれは『不意打ち』だったのだ。きっと、お互いに。
僕は努めていつも通りに振舞っていたが、それでも決して『今まで通り』には行かないことを理解してしまっていた。
握手を交わしたあの瞬間の、先生の緊張が、全身にこびり付いて離れなかった。
どうやら僕達の心地良い沈黙の時間は、絶妙なバランスの上で成り立っていたようで。
(沈黙が、重い……)
今日もいつも通りのゼミだった。先輩達を中心に比較的活発な討論が行われて、先生は時折ポツポツと意見やらアドバイスやらを呟いて。
ゼミの後はいつも先生を交えての飲み会なのだけれど、先生はいつだってこんな調子だから、一人を話し相手役として押し付けたら、後は皆が勝手に盛り上がるという感じだった。
僕が2年の終わりになってゼミに顔を出し始めてから1年間、先生の話し相手役はずっと僕が務めてきた。話し相手と言っても、先生は無理に会話を求めなかったし、僕も沈黙を苦としなかったので、二人並んで酒を酌み交わしているだけだった。
(……どうしよう)
チラリ、と先生の横顔を盗み見れば、相変わらず何を考えているのか分からない無表情ながらも、どこか拒絶されているような空気を感じた。
この堅物そうな先生の、いったいどこから、あのセンシティブで美しく哀しい物語が零れてくるのだろう。
僕は思わず零れそうになる溜め息を呑み込んで、ぐい、と御猪口を飲み干した。
冷たくて熱いアルコールが、喉を灼きながら滑り落ちていく。一瞬だけ明瞭になる思考が、すぐにグズグズと崩れて。
このペースと気分のまま冷酒を呑み続けたら、悪酔いは待ったなしだなと思う。
「……どうして」
囁くような声に、ハッとして隣に視線を向ける。
先生は、手元の御猪口に視線を落としたまま、もう一度呟いた。
「どうして、あの場所にいたのですか」
僕は息を呑んで、手が震えそうになるのを堪えて御猪口を置き、ぐっと手を握り締めた。
酔いは一瞬にして冷めた。指先まで、一気に冷えてしまっていた。
「偶然、です……先生だと、知りませんでした」
僕の答えに、彼はそっと息を吐いて、真っ直ぐに僕を見据えた。
何もかもを見透かしてしまいそうな彼の瞳を、正面から受け止めるのは僕にとってひどく難しいことだった。それでも、今この瞬間だけは決して視線を逸らすまいと。
あの時、咄嗟に逃げようと思ってしまった自分を、消すことは出来なくても。
僕はもう二度と、貴方の視線から逃げたくない。
「そう、ですね。君は他人を揶揄したり、貶めて喜ぶ人間ではない」
先生は、言葉を噛みしめるように、自分の中で確かめるように呟いた。
ふっ、と。
先生の纏う空気が、確かに和らぐのを感じた。
「……遠くから来て下さって、ありがとうございました」
「えっ」
「あの時、言えなかったので」
そう言った先生は、見たこともないくらいに、柔らかく微笑んでいた。
それはいつもの無表情な楢崎教授でも、あの完璧な笑顔の霜月肇でもない、別の顔だと直感した。
確かに何かを、許されたのだと。ようやくそれを悟って、肩の力が抜けた。
「先生」
徳利を持って呼び掛ければ、いつものように少し遠慮がちに御猪口が差し出される。酒が満ちると、今度は先生が徳利を持ち上げて、すっとこちらを見た。
「お願いします」
頷いて、酒を注いでもらう。今日初めて交わした、僕達の『儀式』は滞りなく行われた。
初めて酒を呑んだ日のような、独特の高揚感が全身に満ちていた。
舌を刺すキリリとした苦味と、鼻にふわりと抜ける甘い香り。
小さく息を吐いて、ふと先生を見ると、微かに口元を緩めて御猪口を見詰めていた。
黙って酒を酌み交わしているだけなのに、きっと今、誰よりも彼の心に近い場所にいた。
居酒屋の喧騒の片隅で、たった二人、僕達は静かに満ち足りていた。
ただ、それだけで、良かった。




