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幸福論  作者: 雪白楽
3/5

-03-

 大好きな作家が、たまたま自分の師事する教授だった。

 教え子が、たまたま自分の作品の熱烈なファンだった。

 これを単純にラッキーな偶然だと捉えるには、僕達の現実における距離感は微妙過ぎた。



 堂々と顔出ししてサイン会をしていたのだから、別に作家である事を隠している訳ではないのだろう。それでも確かにあれは『不意打ち』だったのだ。きっと、お互いに。


 僕は努めていつも通りに振舞っていたが、それでも決して『今まで通り』には行かないことを理解してしまっていた。


 握手を交わしたあの瞬間の、先生の緊張が、全身にこびり付いて離れなかった。

 どうやら僕達の心地良い沈黙の時間は、絶妙なバランスの上で成り立っていたようで。


(沈黙が、重い……)


 今日もいつも通りのゼミだった。先輩達を中心に比較的活発な討論が行われて、先生は時折ポツポツと意見やらアドバイスやらを呟いて。

 ゼミの後はいつも先生を交えての飲み会なのだけれど、先生はいつだってこんな調子だから、一人を話し相手役として押し付けたら、後は皆が勝手に盛り上がるという感じだった。


 僕が2年の終わりになってゼミに顔を出し始めてから1年間、先生の話し相手役はずっと僕が務めてきた。話し相手と言っても、先生は無理に会話を求めなかったし、僕も沈黙を苦としなかったので、二人並んで酒を酌み交わしているだけだった。


(……どうしよう)


 チラリ、と先生の横顔を盗み見れば、相変わらず何を考えているのか分からない無表情ながらも、どこか拒絶されているような空気を感じた。

 この堅物そうな先生の、いったいどこから、あのセンシティブで美しく哀しい物語が零れてくるのだろう。


 僕は思わず零れそうになる溜め息を呑み込んで、ぐい、と御猪口を飲み干した。

 冷たくて熱いアルコールが、喉を灼きながら滑り落ちていく。一瞬だけ明瞭になる思考が、すぐにグズグズと崩れて。

 このペースと気分のまま冷酒を呑み続けたら、悪酔いは待ったなしだなと思う。



「……どうして」



 囁くような声に、ハッとして隣に視線を向ける。

 先生は、手元の御猪口に視線を落としたまま、もう一度呟いた。


「どうして、あの場所にいたのですか」


 僕は息を呑んで、手が震えそうになるのを堪えて御猪口を置き、ぐっと手を握り締めた。

 酔いは一瞬にして冷めた。指先まで、一気に冷えてしまっていた。


「偶然、です……先生だと、知りませんでした」


 僕の答えに、彼はそっと息を吐いて、真っ直ぐに僕を見据えた。


 何もかもを見透かしてしまいそうな彼の瞳を、正面から受け止めるのは僕にとってひどく難しいことだった。それでも、今この瞬間だけは決して視線を逸らすまいと。

 あの時、咄嗟に逃げようと思ってしまった自分を、消すことは出来なくても。

 僕はもう二度と、貴方の視線から逃げたくない。


「そう、ですね。君は他人を揶揄したり、貶めて喜ぶ人間ではない」


 先生は、言葉を噛みしめるように、自分の中で確かめるように呟いた。


 ふっ、と。

 先生の纏う空気が、確かに和らぐのを感じた。


「……遠くから来て下さって、ありがとうございました」

「えっ」

「あの時、言えなかったので」


 そう言った先生は、見たこともないくらいに、柔らかく微笑んでいた。

 それはいつもの無表情な楢崎教授でも、あの完璧な笑顔の霜月肇でもない、別の顔だと直感した。

 確かに何かを、許されたのだと。ようやくそれを悟って、肩の力が抜けた。


「先生」


 徳利を持って呼び掛ければ、いつものように少し遠慮がちに御猪口が差し出される。酒が満ちると、今度は先生が徳利を持ち上げて、すっとこちらを見た。


「お願いします」


 頷いて、酒を注いでもらう。今日初めて交わした、僕達の『儀式』は滞りなく行われた。


 初めて酒を呑んだ日のような、独特の高揚感が全身に満ちていた。

 舌を刺すキリリとした苦味と、鼻にふわりと抜ける甘い香り。


 小さく息を吐いて、ふと先生を見ると、微かに口元を緩めて御猪口を見詰めていた。

 黙って酒を酌み交わしているだけなのに、きっと今、誰よりも彼の心に近い場所にいた。


 居酒屋の喧騒の片隅で、たった二人、僕達は静かに満ち足りていた。

 ただ、それだけで、良かった。



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