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幸福論  作者: 雪白楽
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-02-

 生まれて初めて足を踏み入れた東京は『速い』という以外の感想を、思い浮かべることが出来なかった。誰もが何かに追い立てられるように、迷いなく歩を進めて。


 僕は乗換案内と睨めっこしつつ、人にぶつかりつつも何とか目的の駅に辿り着いた。


 威圧するように張り出したビル群は、どれも個性的なデザインや眩しい広告で僕達の目を引きつけようとして、それが逆に個性というものを損なっているように見えた。まるで大学生みたいだ、と思いながら、そんな暗い表現しか出来ない自分の想像力の欠如が悲しかった。


 ただ、遠く目指してきた書店に脚を踏み入れた瞬間、暗く沈みかけていた思考が一気に引き上げられるのを感じた。都会の無秩序なざわめきから解放される感覚。店の奥まで見通せないほどの本棚の群れ。全身を包み込む清潔で乾燥した空気と、あの独特な紙の香り。



 サイン会まではまだ時間があって、店頭に平積みされていた霜月先生の新作を手に取る。待ちに待ったその重みに、思わず笑みが零れるのを感じた。


 パラリとページをめくって、ああ変わってないな、と安堵を覚える。


 彼の文章は、間違いなく読む人を選ぶ、と思う。どこか美しい詩のような言葉選び。小難しいことばかり考えている、この世界では生きにくそうな主人公たち。愛と理想と優しい世界を謳っていて、それでいて最終的には何を言いたかったのかは良く分からない。


 それでも、僕は好きだった。


 いつまでも痛々しくて青かった『あの頃』を失わないままで。言葉では伝えられない『何か』を必死に足掻いて伝えようとしてくる、彼の文章の全てが愛しかった。



「霜月肇先生のサイン会は、二階のオープンスペースで開催致します……」



 書店内に響くアナウンスに、ぐい、と現実に引き戻された。

 名残惜しさを感じつつもパタリと本を閉じ、足早にレジへと向かう。



「サイン会ご参加ですか?」

「はい」


 手渡された整理券を握り締め、いざ二階へ。


「……っ!」


 脚を踏み入れたオープンスペースは、想像していたよりもずっと沢山の人で溢れていた。

 そこは彼の文章そのもののように、静かな熱気で満ちた空間だった。誰も言葉を交わしはしないが、誰もが同じ方向を向いて、たった一人の存在を待ち望んでいた。


 僕達はきっと『ここではないどこか』を永遠に求めて彷徨い続ける、迷い子たちに他ならなかった。それが今、たった一つの共通項によって一瞬だけ結びついている。無数の五感が張り巡らされた空間は、ひどく濃密で心地良く、興奮の絶頂に一つの足音が響いた。



 コツコツコツ



 僕の全身が、予感していた。たった一つの足音だけで、どうしてか、悟ってしまった。


「それではお待たせ致しました。霜月肇先生です!」


 爆発するような拍手の中で、僕だけが呆然と立ち尽くしていた。

 いつもよりずっと上質なスリーピーススーツに、洒落たネクタイとチーフ。

 それでもあの銀縁の眼鏡の奥に覗く、深い叡智を湛えた瞳を間違えるはずもない。


「楢崎、先生」


 目尻に微かに皺を刻み、柔らかな視線と声で、完璧なよそ行きの笑顔で。

 ファンと会話を交わし、しっかりと握手を交わして、さらさらと『霜月肇』のサインをして。


 僕の知らない、楢崎教授がそこにいた。

 ファンから愛され、ファンを愛する完璧な『作家・霜月肇』がそこにいた。


 気付けば列は大分進んで、彼はもうすぐそこまで迫っていた。

 逃げよう、と。咄嗟にそう思った。何も気付かなかったフリをして、帰ってしまおうと。

 きっと綺麗な夢のままにしておく方が、ずっと幸せでいられるはずだと知っていた。

 それでもただ、流されるようにして、僕は断頭台の前に立った。ほんの1時間前までは、そこが世界で最も幸福な場所だと、信じて疑っていなかったのに。



 彼が、僕を見る。完璧な笑顔が、そのとき初めて崩れた。


 見開かれた瞳。疑心。迷い。苦悩。焦燥。



 どれもこれも、僕が初めて見る表情ばかりだったはずなのに、その瞬間の彼は間違いなく『楢崎教授』だった。

 僕は何か言わなければと、カラカラに乾いた口を開いた。



「……高校生の時から霜月先生のファンです。いつも素敵な作品を、ありがとうございます」



 新幹線の中で、何度も練習したセリフ。いざ口に出してみれば、それはひどく陳腐で虚しく響くような気がした。空っぽだ。



「そんなに長い間、ファンでいて下さって嬉しいです。いつも応援、ありがとうございます」



 当たり障りのない返事。彼は僕の手から新刊を受け取って、機械的にペンを走らせた。



「あ……」



 彼の呟くような声に視線を落とせば、サインにはリクエストしていないのに『井口君へ』と宛て名が書かれていた。


 先生はどうしようもなく気不味そうな表情で本を僕に手渡し、事務的に手を差し出して握手を求めた。



「ありがとうございます」



 蚊のなくような声で囁き、握り返した手は、ひどく冷たく強張っていた。


 ぐい、とお辞儀をすると逃げるように、彼の前から立ち去った。




 きっと今、この世界で、彼を本当の意味で『楢崎教授』であり『霜月肇』だと知っている人間は僕だけだった。


 さっきまで心地良かったはずの、ざわめきと熱に満ちた世界の中。都会の真ん中を歩いていた時よりずっと、どうしようもなく孤独だった。




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