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『痛みも苦しみもない世界へ』
彼は、その言葉をこよなく愛していた。
少なくとも彼の書く小説には、必ずと言って良いほどにその文言が登場した。
僕はその言葉を、ひどく哀しくて美しいものだと思った。
そしてきっと、彼も哀しくて美しい人なのだろうと思った。
彼は小説家で、美しい文字の羅列と無機質なページの向こう側にいる人で。
その絶対的な壁は、永遠に崩れないものだと思っていた。
僕は人より少しコアな小説が好きなだけの、至って平凡な大学3年生だ。
人並みの成績で、人並みの容姿で、人並みに友人はいる。
授業の前に教科書など読んだりしない、不真面目な大学生だが、読書は良くする方だ。
いま読んでいるのは、僕が高校生の時からずっと好きな小説家の本で、来週の土曜日は彼の新刊発売と同時にサイン会が東京で行われることになっている。新幹線で2時間の距離だが、もちろん行くつもりだ。
久々の新刊だった。実は彼のサイン会に行くのはこれが初めてで、前に新刊が出た時は受験生だったし、その前は県を跨いで遠出なんか出来るような年齢じゃなかった。
霜月肇。
表紙に書かれた名前をそっと指でなぞり、恋心に似た甘い吐息が零れる。
僕の生まれる前から、この世に美しい言葉を綴り続けてきた人。こんなにも長く文壇にいるのに、ちっとも有名じゃなくて、インターネットでもほとんど名前がヒットしない。男性であること以外、何も分からないという現状は、非日常的な秘密の香りを感じさせた。
コツコツコツ
耳慣れた、控え目な靴音が耳に届く。
ハッとして顔を上げれば、いつものようにそろりとドアが開き、音もなく教授が入ってくる。
短く切り揃えられた髪。銀縁の眼鏡の奥に覗く、深い叡智を湛えた瞳。教授にしては若い容貌。パリッとした清潔感のあるワイシャツ。男にしては細い指に光る、シンプルな結婚指輪。
僕の所属する哲学科研究室の先生、楢崎教授だ。
予定調和的に視線が合い、どちらからともなく会釈する。僕が1年生で彼の一般教養の講義を受けていた時から変わらない。僕は講義に来るのだけは人一倍早かった。それでも会釈してくれる先生なんて珍しく、何となく縁のようなものを感じて彼のゼミに入り今に至る。
ただ、彼は相手が自分のゼミ生であっても、やたらと話しかけて来たりはしない。手前の席に今日使うレジュメを置くと、後は静かに座して黒革の手帳らしきものを繰っている。
「井口君」
「っ、はい」
反射的に返事をして、珍しいこともあるものだと顔を上げる。
「来週の土曜に予定していたゼミですが、再来週へ延期する事になりましたので、3年生諸君に周知しておいて頂けますか」
正直助かった、と思う。来週の土曜、サイン会へ行くため休むのに、どのような言い訳をしようかと思っていた所だった。
「はい」
彼は僕が頷いたことを確認すると、また視線を手帳に落とした。僕と彼の会話は、いつだってこんな感じだ。それでもこの穏やかな静寂は、心地の良いものだった。
ただそれも長くは続かず、無遠慮な足音と話し声を携えた学生達がなだれ込んでくる。
僕は溜め息を吐いてパタリと本を閉じ、どこか遠くに響くチャイムの音を聞いた。
今日もぽつぽつと小難しい宗教哲学の話を始める楢崎教授を見つめながら、頭の中では東京行きの新幹線代と今月の食費について考える。
節約、の二文字だけがいつまでも踊っていた。




