#3 「超演算者」の少女 1
夏。
雲一つない午後の晴天。
ぽかぽかとした陽気に、プールサイドを見下ろす窓からそよぐ風。
黒板から見て最右列の後ろから2番目の席に座っている直樹にとって、これは絶好の睡眠環境だった。すぐ左手からは全開となった窓を通して心地よい風と歓声が頬を撫でている。プールの授業が終わっていい感じに疲労を蓄え、給食の残り物争奪戦に見事勝利していつもより少し多い昼食を終えた彼の身体には、それらはスリープの呪文と呼ぶに実にふさわしかった。
「・・・した・・がって、この・・二つの変・・数にはある・・相関関係があ・・・とが推測で・・・けだが・・・」
教師の声が頭の奥でエコーがかかったように妙な響き方をする。
現在時刻は1時15分。授業開始から15分しか経っていないのにも関わらず、スリープの呪文で召喚され続ける睡魔を前にして彼は早くも意識ライフポイントが赤く点灯中である。「発想学」の教師は寝ている生徒を片っ端から指していって答えられなかったらその問題をノートに50回やらせるという地獄の閻魔様も脱帽するような鬼教師っぷりなので、ここでライフポイントが0になるということは帰宅後別の意味でもライフポイントが0になることを意味していた。
「こ・・・の授業で・・・寝たら・・・マズ・・・」
眠気に必死で耐えている健気な少年だが、彼は自分の目が遠目で見て開いているのか閉じているのかわからない状態になっているという危機的状況に気づいてはいない。隣に座っているポニーテールの女の子が親切にもシャーペンでつついて彼を起こそうとしたが、それより数秒早く、その危機的状況がついに死の宣告へと変わってしまった。
「・・・ということでこれを解くとどういう式になるんだ、志賀」
「・・・・!!は、はふぃ!?」
名前を呼ばれた彼は数秒遅れてふと我に返り、その後空気の抜けるような返事とともにガタンと勢いよく立ちあがった。
まずい。非常にまずい。
指されただけでも寝ていた疑いをかけられていることは明らかなのに、彼は解説はおろか問題すらもまともに聞いていなかった。こんな状況で「わかりません」などと答えたらもれなく「ドキッ!?先生だらけの職員室ツアー2時間の旅!!」への強制参加が決定することはいうまでもない。
突っ立ったまま、彼はこの先に待ち受けているジェノサイドを思い浮かべて嫌な汗を浮かべることしかできなかった。
教科書をもつ教師の手の人差し指が規則的なリズムを刻む。
指されて起立した生徒が何も答えられないでいると、大抵の教師はそこでヒントを出したり愚痴をこぼしたりあるいはその生徒を座らせたりなど、とにかく何らかのモーションをとって授業の進展を優先させるのが普通だろうが、この鬼教師は違う。彼は生徒が何か言うまで自分からは決して何も言わず、むしろその「無言の圧力」こそ、生徒がこの教師を恐れる最大の理由の内の一つとなっている。そして「わかりません」と答えたら最後、静かに「終業後職員室に来なさい」と告げてその後の運命は察しの通りである。
「ど・・・どどどど・・どう・・どう・・しよう・・・??聞いてなかったことなんて分かるはずないし、かといって地獄の書き取り50回は・・・で、でもやっぱり覚悟を決めるしかないのか・・・あああぁぁぁぁぁ―!!」
悲痛な叫びを頭に浮かべたところでどうにもならない。
直樹の場合も例に洩れず、既に指されてから2分以上が経過していた。この教師は黙っていれば平気で残りの授業を解答待ち時間に潰すに違いないのだが、さすがに残り1時間以上もあるこの授業をずっとヘビーサイレントのまま過ごしていけるほど直樹の精神力は強靭ではない。ばつの悪い泣きそうな表情を浮かべながら、いよいよポツダム宣言受託のために腹をくくって「・・・わかりません」と答えようとしたそのとき、
右足の太ももに、何かが当たる感触がした。
となりを何気なく眼だけでみると、机の上のノートの端に「直樹君へ。答えはレーフェンド関数。ゼクス定数はiπ」と書かれていた。視界の端で、ポニーテールの女の子が直樹にニッコリと笑いかけている。
「ま・・まさかの、て・・・天使の来日!?」
左手の窓から差し込む光も十分眩しいが、今は右手にそれ以上の眩い光を放つ天使様の姿があった。彼女が勉強のできる方だという話は皆目耳にしていないが、このすさまじい「頼れる人」オーラは一体どこからくるのだろう?
とにかく助かったー!!っと心の中で胸を撫で下ろしながら、彼は突如手の内に転がり込んできた切り札を使ってなんとかその場を切り抜けた。
「お・・・終わったあぁぁぁ―・・・」
半日と一コマで終わる土曜の放課後に、90分間で様々な敵と戦い抜いた果敢な少年の凱旋歌が空に溶けていった。