前古未曽有
ピー、ピー、ピー。
鈍く、重々しい感覚と共に、有栖川は目を覚ました。
目覚まし時計にしては心地悪い音で、ゆっくりと開いた眼には白い部屋が映る。
(天国?)
そう思うぐらい綺麗な部屋だったが、少し目線を移すと、白衣を着たご老体が「おぉ!」と声をあげながらこちらへ歩いてくるのが見える。
残念なことに、病院らしい。
まだ体力の戻らない体はすぐに動かず、左手首の傷跡は確認出来ない。
――が、どうやら私は「自殺未遂」という形でここに運ばれているようだと悟った。
「いやぁ、ようやく目が覚めたかい。気分はどうだ?」
医者は私の近くに寄ると、悪びれる様子もなく、流れるように左手首を取って心拍数を図り始めた。
私は内心、デリカシーの無い男だと思いつつも、妙な恥ずかしさから反対側を向く。
「覚えているかい? 君、倒れていたんだよ」
「……そう、ですか」
「ずぶ濡れになったんだって? 学校の先生が心配して電話かけても出ないってんで、帰りに寄ったそうだよ。良い先生だねぇ」
「……」
何故この医者は、こんな嬉しそうに話すのだろう。
まさか左手首の傷が見えていない、なんて有りえるはずもない。今まさしく指を置いている場所が、そうなのだから。
「何度呼んでも返事が無い。しかしどうやら鍵は空いている。先生は失礼である事をわかった上で、少し扉を開けると、君が倒れていたんだってさ」
「――もういいですよ、先生」
「良くないよ。少し検査させて貰ったけど、凄いストレスだったそうじゃないか」
「――え? す、ストレス?」
先ほどから噛み合っていない会話に、私は再び医者の方を向いて確認する。
同時に、医者が持つ自分自身の左手首が視界に入り、その手首を見て愕然とした。
「あ……あれ?」
「どうしたんだい?」
医者も私の目線を見て、不思議そうに左手辺りを眺める。自分で言うのもなんだが、傷一つない綺麗な腕だ。
つい先ほど庖丁で貫いたとは思えないほど、いつも通りの腕が、そこにはあった。
(夢?)
あり得ない。
それは、絶対にあり得ない。
しかし目の前の現実が「有る」と言っている。
「ふむ、疲れているんだろう。あとで学校には報告しておく、まずはゆっくり休みなさい」
医者は私の何を悟ったのか、再び屈託のない笑顔を見せて席を立つ。
私も少し力が戻り、ゆっくりと上半身を起こしながら見送った。
改めて周囲を見ると、病院側のご厚意なのか、たまたまなのか、四人部屋に私しかいないようだ。
本当は今すぐにでも帰りたい所だが、まずは疑問を晴らさなければならないので都合が良い。
「私は、死んで、ない?」
私はまず、頬を引っ張る。古典的だが間違いない方法で、案の定痛かった。
少なくとも「死んでない」事は間違いなさそうだ。
もっとも、こんなリアリティのある「死後の世界」なんて御免ではある。
「私は、自殺した」
今更思い出す必要が無いほど、あの時の痛みや熱さは、脳裏に焼き付いている。
焼き付いているという事は、現実に起きた……はずだ。
しかし傷跡は無い。
「病院で治して貰った」のではなく「傷が無い」のだから、余計に混乱する。
(――と、なると)
この不可思議な状況の心当たりは、一つしか無い。
あの日、あの時、あの場所で、私が自殺したという事実を知っている人物が、もう一人いるはずだ。
そしてその人物が近くにいる事に、私は気づいている。
「――そろそろ、出てきてくれない?」
私は、誰もいない病室でそう呟いた。
不思議な事だが、先ほどから病室の扉近くで「誰かが見ている」という空気は感じ取っていた。
最初は看護師か誰かだと思っていたが、こうも動かないのは可笑しい。
「貴方、あの時の人でしょう」
私が続けて口を動かすと、スライド式の扉がゆっくりと開き、日本人離れした青年が姿を見せた。手には綺麗な花を持ち、建前上は「お見舞い」とでも言いたげな雰囲気だ。
「凄い適応力だな。もう少し慌ててもいいんじゃないか?」
青年は、その言葉の通り「青かった」。
比喩や揶揄では無く、その文字の通り。
薄い青色の髪を短くまとめ、カラーコンタクトでは表せないほどの透き通った青眼。黒いコートで全身を包んでいるせいか、より一層青が強く見える。
「……説明、してくれるわよね」
「どこからすればいい?」
「これ」
わざとらしく左手首を見せる私に、青年は整った顔立ちで苦笑すると、花を花瓶にさして近くの椅子に座った。続けてコートの中から一冊の本を取り出し、こちらに向けて軽く投げてくる。
私はそれを受け取り、表紙を見て目を細めた。
それは間違いなく、私のせいで濡れた「女郎蜘蛛の巣」という本そのもの。まるで濡れてなかったかのように新品同然の状態であり、裏にはご丁寧に私の通っている高校の「貸出カード」までささっている。
「俺の名前は――そうだな、レイ、とでも呼んでくれ。有栖川美羽さん」
今更名前を知られていた所で驚きもしない。
最早「常識」は通用しない事はわかっている。
恐らく今から伝えられる事は「事実は小説よりも奇なり」な事ばかりだろう。
私は細めた眼をそのままにして、青年――レイを睨む。
そんな私と目が合ったレイは、苦笑を崩す事なく、私がもっとも求めている答えを示したのだった。
「――安心しろ、お前は死んだんだよ」




